第16回 PANE
華やかなディナーのはじまり。「今日はどの料理とワインにしようか… 」集まった人々の真剣な談義は続きます。
そんなテーブルに、いつも寄り添ってきたパン。今回はそのパンに焦点をあて、魅力を解説します。
解説/料理長 井上裕基
写真・文・エッセイ/ライター織田城司
Commentary by Yuuki Inoue
Photo・Text・Essay by George Oda
イタリアのパン
聖なる存在
イタリアのパンは、田舎パンの風情で、素朴な印象です。
その素朴さの中に感じる、豊かな風味と旨味に、奥深さがあります。
パンを作る文化は古代文明の広がりとともに、オリエントからギリシャを経て、ローマ帝国に伝来しました。
ローマ帝国では「パンと劇場があれば」という生活信条が生まれました。これは、パンと余興がある暮らしは、国家の豊かさや健全な生活、平和を象徴するというもので、イタリア人のパンに対する考え方の基礎になりました。
キリスト教が広がると、パンに神聖な要素が加わり、精神的にも欠かせない存在となりました。
やがて、中世の頃までに、現代のパンに近い形が完成したといわれています。その過程で、地域色を反映した郷土パンも加わりました。
こうした風土から生まれた素朴なイタリアのパンは、豊かな風味や旨味に加え、自然の恵みや歴史を感じることも魅力です。
ラ・ビスボッチャのパン
◆イタリアの伝統パンを再現
当店はイタリア料理の中でも、トスカーナ地方の料理を中心にメニューをそろえています。
このため、パンも料理に合わせ、トスカーナ地方の郷土パン、パーネ・トスカーノを中心に、イタリアの伝統パンを加え、4種の基本セットを組んでいます。
◆自家製のこだわり
当店のパンは自家製で生産しています。常に味の試行錯誤を繰り返し、材料や焼き加減に手を加えているので、自店で生産することを理想としています。
幼い頃、家の近所で親戚のおじさんがパン屋をやっていて、よく遊びに行きました。普段は優しいおじさんでしたが、いざ厨房に立つと真剣な顔になり、黙々とパン生地をのばす姿が印象に残っています。
その変わり身は、幼心には不思議でしたが、自分でパンを作ると、あの時おじさんは、味の試行錯誤をしていたことがわかりました。
◆毎日パンを焼く
パンは気温や湿度に反応しやすく、風味や食感は、すぐ変わってしまいます。
このため、パンは毎日焼いて、食事の直前に切って、その日のうちに食べきるように仕込んでいます。
次項は、そんな自家製パンの味と技を、個々のパンごとに解説します。
パーネ・トスカーノ Pane Toscano
◆発祥と由来
パーネはイタリア語でパンの意味。パーネ・トスカーノは「トスカーナ地方の郷土パン」の意味になります。塩や砂糖で味をつけないことから、イタリアのパンの中でも、最も素朴なパンといわれています。
発祥の由来は諸説あり、しっかりした味のトスカーナ料理とバランスを取るため、あえてパンに味をつけなかったとする説や、塩の入手が困難な時代にできたという説もあります。
◆味わい
表面は厚くてかため。噛みきれないほどのかたさではなく、構造はもろく、ボロッと崩れる食感があります。中はしっとりして、キメは粗く、しっかりと詰まっています。
噛むほどに小麦本来の風味や旨味、甘味を感じます。パスタや肉料理と一緒に食べると、料理を引き立てる素朴な味の良さを実感します。
◆主な材料
強力粉、薄力粉、生イースト、水
エッセイ:食のこぼれ話『パンにまつわるイタリア映画 ❶ 夢のパン』
イタリアの小さな村、ヴィットリオ・デ・シーカ演じる警察署長は巡回中、路上に座り込んでサンドウィッチを食べる男に声をかけました。「今日のパンの中身は何かね?」
男は黙ってサンドウィッチを広げると、中に何も入っていませんでした。貧しく食材が買えないのです。
でも、男は署長にこう答えました。「このパンの中身は、夢です」
この映画は、警察署長が村人の恋愛を次々と成就させるロマンティック・コメディ。邦題は『パンと恋と夢』(1953年)。日本の配給会社はベタな邦題をつけると思いきや、イタリアの原題も『Pane, Amore e Fantasia』と、邦題のままでした。
戦後の復興期、貧しくても前向きに生きるイタリア庶民の心意気を、パンがうまく表していました。
チャバッタ Ciabatta
◆発祥と由来
チャバッタはイタリア北部のロンバルディア地方が発祥とされているパンです。
生地に水を入れすぎて失敗したと思われるパンが偶然美味しかったことから、意図的に水を多めに使うことで発達したといわれています。
パンの形が平べったいことから、イタリア語でスリッパを意味する単語のチャバッタがパンの名称になっています。
◆味わい
表面は薄めでパリッとして、中はしっとりもっちりしながら、大きな気泡で軽め食感。味つけは控えめで、幅広い料理と対応します。
外観や食感はフランスパンの影響を感じますが、生地の風味付けにラードを使うことで、繊細さの中に力強さがあり、イタリアらしい味わいです。
◆主な材料
強力粉、薄力粉、生イースト、モルトシロップ、ラード、塩、水
エッセイ:食のこぼれ話『パンにまつわるイタリア映画 ❷ 刑事のパン』
ローマの中心部、バルベリーニ広場を囲む高級アパートの一室で、婦人の刺殺体が発見された。映画『刑事』(1960年)のスリリングな展開の始まりです。
サロ・ウルツィ演じる刑事は容疑者を取り調べながら、証言を早く取るため、空腹に訴えようと、上着のポケットから紙に包まれた丸いパンを取り出し、「サンドウィッチ食べるかい?」と、すすめました。
日本の刑事物では、「カツ丼食べるかい?」という場面です。イタリアでも同じ手法が使われていることを面白く感じます。
この刑事、とぼけた表情で推理は外れっぱなし。ピエトロ・ジェルミ演じる警部の鋭い推理を引き立てます。その演出の小道具に、丸いパンが効果的に使われていました。
それにしても、映画に映るバルベリーニ広場の風景は、今もほとんど変わりません。アパートの入口から丸いパンを持った刑事が、ヒョイと出てきそうです。
フォカッチャ Focaccia
◆発祥と由来
フォカッチャはイタリア北部のジェノヴァが発祥とされ、その歴史は古代ローマ時代までさかのぼるといわれています。
フォカッチャはイタリア語で「火で焼いたもの」を意味し、ピザの原型ではないかといわれています。ローズマリーやオリーブなどのトッピングを加えることもピザ原型説の背景になっています。
フワフワの生地は、そのまま焼くと膨らみすぎてしまうので、指先でくぼみをつけて、平らに焼きあげるのが一般的です。
◆味わい
ジェノヴァはオリーブオイルの産地で、フォカッチャの生地もオリーブオイルが使われています。当店のフォカッチャもオリーブオイルをたっぷり使って焼きあげています。
薄くて柔らかい表面は、ローズマリーの爽やかな芳香、次に揚げパンのような甘くて香ばしい香りが漂います。中はキメが細かく、ふんわりして、塩味がオリーブオイルとともに、しっかりしみ込んでいます。
◆主な材料
強力粉、薄力粉、生イースト、モルトシロップ、オリーブオイル、ドライローズマリー、塩、ブラウンシュガー、水
エッセイ:食のこぼれ話『パンにまつわるイタリア映画 ❸ 漁師のパン』
映画『揺れる大地』(1948年)は、ルキノ・ビスコンティ監督が初期に手がけた作品で、シチリア島の貧しい漁師の生活をリアルなタッチで描いています。
ビスコンティはこの作品で、今なお絶えない、搾取される労働者の問題を浮き彫りにしました。
物語の合間に挿入されるナレーションは、漁師の生活を次のように語ります。
「ワインをひとくち。パンとニシン一匹。これだけの食事で、再び夜の海に出て行くのだ。明日のパンを稼ぐための重労働に」
漁師の厳しい生活が、パンで簡潔に表現され、印象に残る一節になっていました。
グリッシーニ Grissini
◆発祥と由来
グリッシーニは17世紀、イタリア北部のトリノで生まれたとされています。この地を治める王家に胃弱な人がいて、消化の良いパンを料理人に作らせたのが始まりといわれています。
フランス皇帝ナポレオンが「小さなトリノの棒」と呼んで、好んで食べたという記録が残っているそうです。
◆味わい
スナックのようにカリカリとした食感と、塩味が特徴です。
細く仕上げているので、口の中に小麦の香ばしい風味と塩味の広がりを感じながら、軽めの後味になっています。
◆主な材料
強力粉、薄力粉、生イースト、オリーブオイル、塩、ブラウンシュガー、水
お召し上がり
◆味の使い分け
グリッシーニとフォカッチャは味がしっかりして、単品でも味わえることから、食前酒や前菜と合います。パーネ・トスカーノとチャバッタは料理パンとして味つけは控えめで、生地はソースとよくなじみ、パスタやメインの料理と合います。
◆パンとテーブルクロス
イタリア人の料理の食べ方を見ていると、パンは左手に持ち、右手のフォークの動作を補助するように使っています。お皿の上の料理をパンで集めたり、フォークに押し上げるうちに、程よくソースや肉汁がしみて、パンも美味しくいただけます。
イタリアでは、格式あるレストランに行っても、パン用の皿がないことがあります。おそらく伝統なのでしょう。このため、各自のパンは、直接テーブルクロスの上に置きます。テーブルクロスは、コットンやリネンなど、人肌にやさしい天然素材が使われ、お客様ごとに取り替え、洗濯するので、常に清潔だからです。
当店もそんなイタリアのテーブルクロスの伝統的な使い方を踏襲しています。パンは手元のテーブルクロスの上に置いて、ちぎって、パン粉を思いっきりこぼして、イタリアらしい豪快な食べ方をお楽しみください。
◆パンにオリーブオイルをつけないのがイタリア式
パンは文化。各国の食事情は様々です。あらかじめ知っておくと、海外旅行などで役立ちます。
イタリアのレストランで出てくるパンは、料理とワインの味を引き立て、食を進める脇役として提供されています。このため、イタリア人はパンに調味料をつけて食べることはしません。ご飯に醤油をかけて食べないのと同じです。
一方、アメリカ人はケチャップやマスタードなど、パンに調味料をつけて食べる習慣があります。イタリアのレストランに行っても、前菜を待つ間、パンにつける調味料を要望して、オリーブオイルやバルサミコ酢をつけて食べ始めました。
戦後、こうしたアメリカ人観光客が増えると、イタリアのレストランも、あらかじめ卓上に調味料を置く店が増え、日本人もアメリカ式を参考にする人が少なくありませんでした。
そんなイタリアのレストランの中でも、老舗は伝統にのっとり、今でも卓上に調味料は置いていません。もちろん、要望すれば出してくれます。
当店もイタリアの伝統に準じた対応をしています。前菜を待つ間は、味がしっかりした、グリッシーニとフォカッチャがおすすめです。
いつもご利用いただき、誠にありがとうございます。
今宵も、ラ・ビスボッチャのディナーで、楽しいひとときをお過ごしください。