私とビスボッチャ:登地勝志さん

MY BISBOCCIA

Episode 12 : Kastushi Tochi

高倉健さんの思い出

ビスボッチャに来店されるお客さまのインタビューで綴る連載コラム。今回は、スタイリストの登地勝志さんに、高倉健さんと仕事をした思い出や、ビスボッチャについて語っていただきました。

ビスボッチャのバーカウンターで語る登地勝志さん

◆スタイリスト 登地勝志(とちかつし)さんプロフィール 

1955年 滋賀県彦根市生まれ 

 

⚫︎高校卒業後、服飾企業でメンズウエアのファッション・アドバイザーとして勤務

1974年 VANショップ木野

1979年 ニコル

1981年 ビームスF 原宿本店

1990年 エミスフェール

1992年 ビームス 外商部

 

⚫︎ファッション・アドバイザーとスタイリストを兼務

1992年 テレビ『土曜ドラマ チロルの挽歌』(NHK)高倉健の衣装アシスタント担当。

1994年 テレビ『土曜ドラマ 銀行 男たちのサバイバル』(NHK)小林稔侍の衣装担当

 

⚫︎スタイリストとして独立

1994~2008年  テレビ『スポーツうるぐす』(日本テレビ) 江川卓の衣装担担当

2002~2006年 テレビ『トリビアの泉』(フジテレビ) タモリの衣装担当

2005~2008年 テレビ『タモリのジャポニカロゴス』(フジテレビ) タモリの衣装担当

2012~2013年 テレビ『リーガルハイ』(フジテレビ)堺雅人の衣装担当

1.ライフスタイル

ビスボッチャの入口に立つ登地勝志さん

メンズファッションとの出会い

1960年代、小学生のころ、母に連れられ、はじめて映画館で観た映画は、フランスのジャック・ベッケル監督が手がけた、刑務所から脱獄を企てる囚人のアクション映画『穴』(1960年)でした。

母はアクション映画が好きで、映画館に観に行きたいけれど、私だけ家に置いていくわけにいかず、連れて行ったのだと思います。

私は、文部省推奨の健全な映画や、ディズニーのアニメよりも、アクション映画の方がワクワクしたので、母が選ぶ映画が好きでした。

ほどなく、 高度成長時代に突入すると、洋画では007シリーズ、邦画では、加山雄三さんの若大将シリーズや、高倉健さんの任侠映画が人気になりました。

 

スターの着こなしに刺激され、中学生になると、ファッションに目覚めました。

街のメインストリートにあった、アメリカントラッドをベースにした国産ブランドVANのショップが、憧れの的になりした。

仲の良い友だちがVANの服を着るようになると、私も母にせがんで、VANのネイビーのステンカラーコートを買ってもらいました。うれしくて、中学2年生から高校3年間、卒業しても着ていました。

高校を卒業すると、酒屋でアルバイトをしていました。休みの日は、VANショップで買い物をしながら、店長とファッション談義をするのが楽しみでした。

ある日、店長から「そんなに服が好きなら、酒屋でバイトしないで、ウチで働いたらどうか」と声をかけていただき、就職しました。1974年、19歳の春から約5年間勤務しました。

 

やがて、VANのブームに翳りが見え、1978年に倒産しました。

その一方で、ヨーロピアン・テイストをベースに、日本のデザイナーが手がけたメンズウエアが出てきました。後にDC(デザイナー&キャラクター)ブランドブームと呼ばれるトレンドの勃興期でした。

ファッション誌「メンズ・クラブ」には、当時のファッションアイコンだった、萩原健一さんをモデルにした、メンズ・ビギの服を紹介する特集が毎号数ページあり、若者に影響力がありました。

節目を感じ、上京してメンズ・ビギで働こうと思いました。しかし、当時のメンズ・ビギの本社は、西五反田にありました。

せっかく上京して働くのに、西五反田はどうかと思い、最終的に1979年、24歳の春から、青山のキラー通りにあったニコルに転職しました。会社を勤務地で選ぶ、軟弱な動機でした。

 

彦根から原宿へ

原宿駅からニコルまで歩く道のりには、服飾雑貨店がたくさんあり、毎日見て歩くのが楽しみでした。なかでも、目についたのは、1976年に創業したばかりのビームスでした。アメリカから輸入した服飾雑貨を並べ、後にセレクトショップと呼ばれる業態の走りでした。

ビームスのなかに、ビームスFという、メンズのドレスクロージングをメインにしたコーナーがありました。かつてアメリカン・トラッドで洗礼を受けた私には、気になる品揃えでした。

 

ブームの勢いで、ニコルで働きはじめたものの、東京で服飾雑貨店をたくさん見ると、トラッドが好きなことに気がつき、仕事帰りにビームスFで店長と服飾談義をすることが多くなりました。

そのうち、店長から「そんなにトラッドが好きなら、ウチで働けば」と声をかけていただき、転職することにしました。自ら動くより、人からすすめられて動く性格を実感しながら、1981年、26歳の春からビームスFで勤務しました。 

そのときの店長は、栗野宏文さん(現ユナイテッド・アローズ上級顧問クリエイティブディレクション担当)でした。

栗野さんと若いスタッフと私の3人で勤務シフトを回しながら売場を運営する仕事が2、3年続きました。やがて、栗野さんが内勤に異動すると、私がビームスFの2代目店長になりました。

ビスボッチャの店内に立つ登地勝志さん

高倉健さんとビームス

高倉健(19312014年)さんは、私がビームスに入社する以前から、ビームスに来店していました。最初のきっかけは、看板代わりに街路樹にぶら下げていたジャンパーを、車のなかから見つけ、来店されたそうです。

私もビームスFに入社する前、客として通っていた1979年から1980年の間に、店内で健さんの姿を何度も見ました。

 

当時、健さんがビームスに来店された背景を、いくつか想定すると、出演作の過渡期で、当たり役のヤクザのヒーローを演じ続けることに疑問を感じ、庶民の男のドラマを演じる俳優を模索していました。

このため、劇中で着る服は、映画会社の衣装部が用意した服より、市中の店で購入した定番服を普段から着こなし、体になじませ、そのまま撮影に臨み、リアリティを出すパターンが多くなりました。

とはいえ、健さんは背が高いから、日本人の標準体型に合わせたサイズの服だと合わない。そこで欧米から輸入した服を物色していました。当時は輸入服を扱う店は少なかったため、ビームスもチェックポイントになりました。

また、当時は路上駐車の規制が緩く、明治通り沿いに車を停め、目の前のビームスに潜り込めば、人目について騒がれることなく、ゆっくり服選びができました。

映画『野生の証明』(1978年)や『遥かなる山の呼び声』(1980年)、『駅 STATION』(1981)のなかで着る服のいくつかは、当時のビームスで購入したものでした。

 

◆作品データ 映画『駅 STATION』
公開:1981年11月
監督:降旗康男 脚本:倉本聰
北海道札幌署の刑事が、ローカル線の駅を舞台に殺人犯を追う物語。
高倉健は主人公の刑事を演じた。

 

『駅 STATION』の後半、倍賞千恵子さんが女将を演じるおでん屋で、健さんが演じる刑事が酒を飲む名場面で、健さんが着用していた、アメリカのミリタリーアウターM-65は、ビームスで購入されたものだそうです。

店で扱っていた最大サイズのLは、健さんには小さく、もうワンサイズ大きなサイズを所望されたので、上野の輸入元に依頼して取り寄せたそうです。

健さんがM-65を着用しているシーンを見ると、ややオーバーサイズ気味ですが、それも健さんの計算でした。

全身のたたずまいを彫刻像のように大きな塊で感じさせ、服が先に目立つことなく、スッと顔に目がいく。そんな視覚効果を感じました。

 

高倉健さんとの仕事

私がビームスに入社して、健さんの接客をはじめたころは、ジャンパーやパンツなど、主にカジュアルアイテムを購入されていました。

健さんは、弟分として可愛がっていた男優、小林稔侍さんを連れてくることが多かったです。

稔侍さんは黙って一緒にいるだけでしたが、すぐ、別の日に、一人で来店して、健さんと同じ服や、色ちがいの服を購入されました。稔侍さんは、健さんの背中から、服の選び方を学んでいたのかもしれません。

 

健さんの接客をするときは、服の話しかしませんでした。健さんの出演作はすべて観て、最新作もいち早く観ていましたが、その話はしませんでした。

健さんからも、「今度の新作観た?」などと問われることは、いっさいありませんでした。私がハリウッドスターの着こなしを引用する話は、聞いてくれましたが、出演作の話は、触れてはならない空気を感じていました。

いま考えると、おそらく、服を真剣に選びたかったのでしょう。

健さんは、役柄によって、私服をそのまま撮影に使うこともありました。普段着と仕事着の境がない。だから服を買うときは、さまざまなことを考えていたのだと思います。

そのために、服の専門店に来ているのですから、まずは、映画の話でなく、服のおすすめを話してください、ということを背中で教えていたのだと思います。

ビスボッチャのバーカウンターでイタリアンのビール「モレッティ」を飲む登地勝志さん

高倉健さんの着こなし術

ビームスF9年間勤務した後の1990年、35歳の春から、パリのフレンチトラッドのセレクトショップ、エミスフェールの輸入品を扱うアパレル商社、株式会社金万に転職しました。

雇用の条件として、スタイリストの仕事の兼務を許可してもらい、ベテランのスタイリスト、宗明美さんのアシスタントとしても活動しました。

すると、健さんからNHKドラマ『チロルの挽歌』の衣装調達の依頼がありました。

 

◆作品データ NHKドラマ『チロルの挽歌』
放送:1992年
脚本:山田太一 演出:富沢正幸
定年間際の鉄道会社技師が、北海道のチロリアンワールド開業で奮闘する物語。
高倉健は主人公の事業責任者を演じた。

 

本作の背景はバブル景気の時代。あらゆる価値観が変わり、お堅い企業が突然、新規事業でサービス業をはじめ、変化に対応しなければならない社員が多かった。そんな人々の葛藤を描き、健さん自身も、地味なサラリーマンという新しい役に挑戦しました。

健さんは、事前の衣装検討で、サラリーマン役とはいえ、地味すぎないように、役の年収を想定しながら、この程度のクオリティーの服は着るだろう、と思案をめぐらせていました。

スタイルのテイストは、当時流行していたイタリアン・モードではなく、アメリカン・トラッドを選び、実直なイメージを出しました。

コートやスーツ、ジャケットはネイビーかグレー、シャツは白かブルー、ネクタイはネイビーの無地か無地調ストライプ。

アイテム名だけ書くと、サラリーマンの定番服でした。

 

しかし、画面で見ると格好よく見えるのは、健さんのサイジングのこだわりでした。

肩が広く堂々とした感じや、ゆったりしたシルエットがもたらす曲線美など、ミリ単位にこだわり、オーダーメイドで仕立てました。

畳の上に座るシーンは、どうしても猫背になり、シャツの襟の上に顎の肉がはみ出す。健さんはこの見え方を嫌い、畳の上に座るシーンで着るシャツは、立ち姿で着るシャツの首まわりより5㎜大きなシャツを別につくり、使い分けていました。

チロリアンワールドの建築現場で着る作業着も、サイジングのこだわりからオーダーメイドで仕立てていました。

ラストシーンのチロリアンワールド開会式で、健さんと市長役の河原崎長一郎さんが着るチロリアンジャケットの仕立てについて、健さんからいただいた指示は、健さんは大きめのブカブカ、河原崎さんは小さめのピチピチでした。

サービス業に不慣れな人たちが戸惑う哀感を、ユーモラスに描くためで、演出目的でもサイジングを上手く生かしていました。

NHKは健さん初出演で気合いが入り、バブル景気を背景に、映画のようにお金と時間をかけて制作しました。

 

次に、健さんはエイジングにこだわりました。劇中の人物のリアリティを出すために、服に使用感を出す。このため、衣装を決めると普段から着込んで、体になじんだシワや洗いざらした表情をつけました。  

健さんは、映画『四十七人の刺客』(1994年)で忠臣蔵の大石内蔵助を演じたとき、腰に刀を差した時代劇の衣装を体になじませようとしたけれど、さすがに街を歩くわけにいきません。

そこで、伊豆の下田でスタッフと合宿し、人のいない海岸で時代劇の衣装を身に着けて散歩しながら、体になじませました。エイジングの期間は、演じる男のイメージづくりにも役立ったそうです。

 

サイジングやエイジングなど、服の下ごしらえが整うと、撮影はポージングにこだわりました。人体のポーズはもちろん、服の表情も一緒に意識することで、より格好良く見せていました。

たとえば、コートとジャンパーの襟は、立てたり、寝かせたりしながら表情をつける。

コートやスーツ、ジャケット、ジャンパーなどは、前ボタンやジッパーの開け閉めに変化をつけ、場面によって、きちんと見せたり、ラフに見せたりする。

ネクタイの結び目は、しっかり結んで形をシャープに出し、シャツの襟に隙なく収める。

こうしたポージングの技を、健さんは、アメリカ映画を何度も観て、俳優の着こなしを研究し、真似していました。

好んで参考にした俳優は、ケイリー・グラントやポール・ニューマン、スティーブ・マックイーン、ロバート・デ・ニーロなどです。みな、平凡な服を格好良く着こなす達人です。

健さんは口に出して言いませんが、真似をしていることは、出演作を見ればわかりました。

 

いまの若い俳優さんは、服の表情のつけ方がわからない人が多い。

ドラマ『リーガル・ハイ』(2012年)で堺雅人さんの衣装を担当したとき、堺さんに、スーツ姿は、立つシーンは前ボタンを閉め、椅子に座るシーンは前ボタンを開け、表情にバリエーションをつける技を教えました。

脚本には、服の着方の細かいことまで書かれていませんから。

ビスボッチャのバーカウンターでイタリアのビール「モレッティ」を飲む登地勝志さん

高倉健さんの素顔

『チロルの挽歌』の撮影で、真冬の北海道ロケが佳境に入ると、人手が足りなくなり、応援要請がありました。メインのスタイリストの宗明美さんが多忙のため、アシスタントの私が代わりに行くことになりました。

私は、羽田空港で、市長役の河原崎長一郎さんと、課長役の西岡徳馬と待ち合わせ、航空券を手渡し、北海道のホテルまで引率しました。

千歳空港に着陸すると、ロケ地とホテルがある北海道中央の芦別市まで、雪道を車で約3時間かけて行きました。途中で空気中の水蒸気が凍るダイヤモンドダストをはじめて見ました。

 

ホテルに着くと、すぐに健さんの部屋に挨拶に行きました。すると、健さんは「よう!登地さん、遠路はるばるよく来たね。ありがとう。ところで、何しに来たの?」といって大笑いしました。

唖然としていると、すぐに「今晩飯いこう!」といって夕食に誘ってくれました。現場では、若いスタッフの面倒見がいい人でした。

夕食会は健さんを含めて4名。健さんと私のほかに、監督の富沢正幸さんと市役所の若手職員を演じた芦川誠さんが同席しました。ホテルから寿司屋まで、健さん自ら四輪駆動車を運転してくれました。

健さんは映画『海へ See you』(1988年)で、砂漠のなかを四輪駆動車で競争するパリ〜ダカール・ラリーを題材にした作品で主演し、四輪駆動車の運転は本格派。感激と恐縮で複雑な気持ちでした。

寿司屋に着くと、健さんは、すき焼きを注文しました。実は、健さんは、魚介類が苦手でした。寿司を期待していた同席者が唖然としていると、健さんは後で寿司も注文して、大笑いしました。

健さんの後半生のイメージは、寡黙な男で、テレビCMの台詞「自分、不器用ですから」が代名詞になっています。しかし、それはつくり上げたキャラクターのイメージで、素顔の本人は、よく喋り、冗談を連発し、器用な人でした。

 

真冬の北海道ロケが終わり、渋谷のNHKのスタジオで撮影するとき、脚本を手がけた山田太一さんが見学に来ている姿を見たことがあります。

昨年、山田太一さんが亡くなると、手がけたテレビ番組を再放送する機会が増え、『チロルの挽歌』も改めて観ました。衣装や着こなしの完成度は高く、健さんの作品のなかでもトップクラスだと思いました。

 

1992年、37歳の春からビームスに出戻り、外商部で勤務しました。すると、ハリウッド映画『ミスター・ベースボール』に出演し、日本のロケに参加していた健さんから連絡がありました。

 

◆作品データ ハリウッド映画『ミスター・ベースボール』
公開:1993年
監督:フレッド・スケピシ 脚本:ゲイリー・ロスほか
アメリカのプロ野球選手が日本の球団に移籍し、文化の違いに戸惑う姿を描く物語。
高倉健は日本の球団の監督を演じた。

 

健さんの連絡は、神宮球場でロケをしているが、寒くなり、スタッフの防寒具が必要で、至急用意して欲しい、という依頼でした。

その数80着、スタッフはアメリカ人が多く、大きなサイズも必要。店頭の在庫では揃わないため、仕入れ先に依頼し、N-3Bというミリタリーアウターを急いで取り寄せ、納品しました。

その防寒具は、健さんが代金を負担した差し入れでした。でも、健さんは恩着せがましくなく、マスコミに吹聴することもなく、黙っていました。

神宮球場で撮影するシーンは、私も観客のエキストラとして参加しました。

 

健さんは、撮影現場が好きでした。私も、みんなんでひとつの映画やドラマをつくる現場の一体感が好きです。

健さんは亡くなられましたが、映画やドラマのなかで生きています。それを観ながら、現場で教えていただいたことを思い出して、感謝しています。

「週刊文春」がまるごと1冊ビームスとコラボしたムック本(2019年10月29日発売)の大型ワイド特集ビームス人秘録に掲載された登地勝志さんのページ

文春オンライン「高倉健のすべてを知る男」”伝説のビームスOBに会いに行った話” 記事のリンク

2.イタリア料理の魅力

ビスボッチャ店内

イタリアの食材とワインの美味しさ

イタリア料理を回想すると、1960年代、子どものころ、故郷の街に、イタリアン・レストランはありませんでした。

1970年、中学生のころ、大阪万博を見学すると、海外への憧れが芽生えました。

1971年、高校生のころ、地元のラジオ局、KBS近畿放送で、京都の四条にできたイタリアン・レストラン「サンマルコ」の宣伝が流れると。無性に行きたくなりました。

友だちと一緒に訪ね、はじめてピザを食べ、あつあつのチーズの味と香りに感激しました。

1980年代、ビームスFで勤務していたころ、店の裏の細い路地にあったパスタ料理店「ラ・ベルデ」によく通いました。

イタリア製のパスタブランド「ディ・チェコ」は、今でこそ日清製粉が輸入代理店になっていますが、以前は別のエージェントが輸入していました。

そのエージェントが経営して「ディ・チェコ」を使ったパスタを出す店が「ラ・ベルデ」でした。

やがて、イタリアンをフルメニューで提供する「トラットリア・ラ・ヴェルデ」に事業拡大して、竹下通り中ほどの2階にオープンしました。

仕事帰りに、お客さまやスタッフと行くと、店の隅で飲んでいたオーナーが、ワインを1本差し入れてくれました。

 

イタリアへ行ったことはなく、本場の料理の素晴らしさはわかりませんが、日本で感じるイタリア料理の魅力は、イタリアの食材を使った料理と、ワインだと感じています。

イタリアの食材とワインは、味わい豊かで、他の国のものとはちがいます。「酒が好きそうな人たちがつくる味だ」と、同じ酒好きとして感じています。

ふだんの生活で味わう機会は少なく、ビスボッチャに行く楽しみのひとつにしています。

3.私とビスボッチャ

広尾商店街の銭湯「廣尾湯」を出て、ビスボッチャに向かう登地勝志さん

人とお店の縁を大切に

ビスボッチャで会食する日は、広尾商店街にある銭湯「廣尾湯」で一風呂浴びてから行きます。

湯上がりに脱衣所で、冷えたコーヒー牛乳が飲みたくなるのを我慢し、足早にビスボッチャに行き、バーカウンターでイタリアのビール「モレッティ」を飲むと、より美味しく感じます。

「廣尾湯」を教えてくれたのは、原宿で「ブルドック」というお好み焼き屋を営んでいた石山希哲さんでした。

『チロルの挽歌』の撮影終了後、NHKの担当プロデューサーから、関係者で打ち上げをしたい、渋谷のNHKから近い店を探して欲しい、と依頼を受け、私は行きつけの「ブルドック」を手配しました。

健さんも来てくれました。健さんは、はじめて会った石山さんと意気投合し、その後も通うようになりました。健さんの食生活のほとんどは外食でした。このため、石山さんは、頻繁に来店する健さんのために、メニューにない料理もつくりました。コーヒー好きの健さんが、エスプレッソが飲みたいといえば、エスプレッソ・マシンを買って対応しました。

 

私の場合、飲食店の選び方は、自ら開拓することは少なく、親しい人に教えていただいたり、連れて行かれて知り、気に入ると通い詰めるパターンです。グルメレポートのような目線ではなく、人の縁を大切にしています。

ビスボッチャも業界仲間に誘われて知り、その後は新年会や誕生日会など、特別な日に利用しています。

何を食べても美味しいけれど、イタリアの食材や、季節の食材を使ったメニューを肴に、イタリアのワインを飲むのが好きです。

事前に、井上料理長にお願いして、アクション映画に出てくるメニューを再現してもらったこともあります。

「廣尾湯」の帰りにビスボッチャに寄る贅沢。気心知れた安心感がありながら、特別な日として、いつもよりドレスアップして行くことを、楽しみにしています。

今回引用した、京都や原宿の飲食店は、残念ながらすべて閉店しました。ビスボッチャは、思い出に帰れるお店として、末長く続くことを願うばかりです。

 

料理長 井上裕基談

いつもご利用いただき、ありがとうございます。

登地さんには、アクション映画に出てくる服の、マニアックな話を聞かせていただくことを楽しみにしております。

イタリアの食材やワインをたくさんそろえて、お待ちしておりますので、今後ともよろしくお願いします。

 

取材:2024年2月

(監修:料理長 井上裕基  写真・文:ライター 織田城司)