Episode 15 : Tanroh Ishida
ビスボッチャに来店されるお客さまのインタビューで綴る連載コラム。今回は、日本の伝統芸能の発展と普及のために狂言師、役者として活躍する石田淡朗(いしだ・たんろう)さんに登場いただき、演劇を学んだイギリス留学時代、狂言師への思い、イタリアの料理とワインの思い出、ビスボッチャとの出会いについて語っていただきました。
◆石田淡朗(いしだ・たんろう)プロフィール
1987年 東京都文京区で狂言師・石田幸雄の長男として生まれる。
2003年 イギリスの高校に留学して現代演劇の演技を学ぶ。
2009年 イギリスのギルドホール音楽演劇学校卒業、ロンドンを拠点に役者として演劇や映画に出演。
2017年 活動の拠点を東京に移し、狂言師、役者、映像プロデューサー、所作コンサルタントとして活躍。
1.演劇を学んだイギリス留学時代
私は1987年、東京都文京区で生まれました。父は狂言師で、幼い頃から父の舞台を見て育ちました。
ほどなく、3歳で初舞台を踏みました。伝統芸能の家系に 生まれた宿命です。
はじめの役は、猿でした。
事前に先生から猿の所作をいくつか教えていただきます。頭をかくとか、飛んでいる虫をつかまえるとか、でんぐり返しをするとか。
その所作を、約30分間の舞台の上で、自分のアドリブで組み合わせ、つなげていかなければならない役でした。初舞台の子どもには、ハードな役です。
やがて、小学生になり、体が大きくなるにつれ、役も変わっていきました。能の舞台に出させていただくこともありました。
中学生になると、自分が出演する能狂言の舞台とは別に、古典芸能ではない舞台芸術にも興味を持ち、現代劇を観劇することに夢中になりました。
情報誌で演劇公演のスケジュールをチェックして、新宿のコマ劇場や紀伊國屋ホールによく行きました。
通学していた中学は、私立の中高一貫校でしたが、そのまま高校へ進学するより、普通の演技を学んでみたいと思うようになりました。
そんな心境の変化から、入学したときの成績は学年で2位でしたが、2年生になると学年で下から2番目になっていました。
しかし、日本の劇団では、伝統芸能の家系の子息は受け入れてくれそうにありませんよね?
そこで、留学しようと思いました。イギリスで演劇が盛んな高校を探し、高校1年生の時から留学しました。
イギリスは、狂言の海外公演で行ったことがあり、そもそも、自ら望んで行っているので、多少のホームシックはあったものの、大きな違和感はありませんでした。
イギリスの高校では、多くの人から「今までどんな演劇をしてきたの?」ときかれ「狂言」と答えると「キョウゲン?何それ?」と通じなかったことで、一種の挫折を覚えました。
高校のカリキュラムは、座学ばかりでなく、劇場で実習をする時間が多く、自ら望んで、空いている時間には照明や舞台装置など、裏方の技術も学びました。
高校に通いながら週末は、ロンドンの中心部の劇場で3、4本の演劇を観る生活を続けていました。
高校を卒業する頃、先生から、ロンドンにある演劇と音楽の専門大学、ギルドホール音楽演劇学校の受験をすすめられました。
卒業生は、俳優ではユアン・マクレガーやダニエル・クレイグ、オーランド・ブルームなど、音楽家ではビートルズの編曲とレコーディング・プロデューサーを務めたジョージ・マーティンなどが名を連ねる名門校でした。
倍率が高く、外国人が合格するケースは稀とされていましたが、合格したことで進学を決め、同校初の日本人生徒になりました。
イギリスで学んだ、現代劇の演技は、大きく分けて、イギリス式とアメリカ式のふたつがあることです。
イギリス式は、役に入り込まず、型で演じるという言い方が近い。演技を教わるとき「確信犯的な演技をしろ」と言われ、システマチックかつ職人的な演技法を学びます。
イギリスの場合は、オックスフォードやケンブリッジなど、名門大学の卒業生もアートやエンタメの世界で活躍するケースも多く、その影響もあると思います。
このため、イギリス式の演技は、本番がはじまるとすぐ役に入れ、本番が終わるとすぐ役から離れ、素の俳優に戻れる。しかも確信的に演じているので、同じ芝居が何回もできる。
その一方で、アメリカ式は、内面から役に入り込み、役の人物に成り切ることを優先します。だから、芝居や撮影の期間中は役が抜け切らない。同じ芝居が繰り返せないことが多いように思います。
ロンドンの大学は3年制でした。3年経って卒業してもロンドンに残り、役者の傍ら、劇団を作り、演劇の公演を行ないました。
そのころ、出演させていただいたのが、ハリウッド映画の『47RONIN』です。
◆映画データ 『47RONIN』
日本公開年:2013年
製作国:アメリカ
監督:カール・リンシュ
作品情報:
日本の「忠臣蔵」をモチーフにして、架空のエピソードを加え、VFXを駆使したスペクタクルな映像で描くサムライ・ファンタジー・アクション。
主演のキアヌ・リーブスは架空の外国人浪人の設定。大石内蔵助(真田広之)は浅野内匠頭(田中泯)の娘(柴咲コウ)と吉良上野介(浅野忠信)の仇討ちを計画する。石田淡朗は将軍、徳川綱吉(ケイリー=ヒロユキ・タガワ)の側近の役で出演。
ハリウッドがある意味で架空の物語として割り切った「忠臣蔵」で、日本人として譲歩するところは譲歩するけれど、これだけは守りたい、という思う部分があり、共演の真田広之さんと私が積極的に制作陣と英語でディスカッションしたことから、真田さんと意気投合しました。
撮影後、真田さんはロサンゼルスのイタリアン・レストランで食事しながら「また、共演できたらいいですね。お互いの年齢を考えると親子の設定かもね」と仰ってくださりました。
すると、1年も経たないうちに映画『レイルウエイ 運命の旅路』で真田さんと共演することとなりました。
親子の役ではなく、真田さんの若い頃の役、つまり同一人物の役としての共演でした。
◆映画データ『レイルウエイ 運命の旅路』
日本公開年:2014年
製作国:オーストラリア・イギリス
監督:ジョナサン・テプリツキー
作品情報:
第二次世界大戦中、日本が占領していたタイとビルマ間の鉄道建設に従事させられた英国人捕虜(コリン・ファース)と収容所にいた日本人通訳(真田広之)が、約50年後に同地の戦争博物館で再会する実話に基づく人間ドラマ。石田淡朗は、真田広之の青年期を演じた。
役づくりについて多くの指示はしない監督でしたので、自分で時代考証を研究しました。少なくとも、戦時中だから痩せていなければならず、しばらくサラダだけを食べるダイエットをして、冷菜を作る難しさを学びました。
回想シーンの大半をしめたタイでのロケでは、老年期のイギリス人(コリン・ファース)と日本人(真田広之)の二人組と、青年期のイギリス人(ジェレミー・アーヴァイン)と私の二人組が、お互いの撮影の様子を見れる日替わり交代のスケジュールだったので、4人ともに影響を受け合うような撮影でした。
2.狂言師への思い
映画『レイルウエイ 運命の旅路』の出演した数年後の2017年、30歳になる頃、約15年暮らしたロンドンの活動拠点を引き払い、帰国しました。
その理由は、自分のルーツはやはり狂言にある、という思いがずっとあり、30歳の節目がラストチャンスと感じたからです。
そして、もう一度ゼロから狂言を学び直すつもりで、父の師匠・野村万作先生のもとで、住み込みの書生から修業し直すこととなりました。
現在は、英国式のシステマチックな演技術と、狂言の「所作」という概念を掛け合わせ、異業種の方々へも非言語表現術として活用していただくことを目指しています。
3.イタリアの料理とワインの思い出
はじめてイタリアへ行ったのは、イギリスの高校に留学していたときです。
夏休みに2週間ほど、目的地を決めない、気ままな一人旅でした。
電車で移動し、見知らぬ駅で降りる。街を散策して、美味しそうなレストランをおぼえておく。宿を探し、荷物を置き、目をつけたレストランへ戻ると、やはり美味しかった。
そんな旅を続けるうちに、イタリア料理が大好きになりました。
ローマのレストランでは、入口から見える位置にガラス張りの冷蔵庫があり、多くの食材の中に花があるのを見つけ、「どういうこと?食べてみなくては!」と思って注文しました。それが花ズッキーニのモッツァレッラ入りフライとの出会いでした。
ベニスの海辺のレストランでは、テラス席で、魚介のフリットを肴に、白ワインをチビチビ飲むことが、すごく幸せなことに気がつきました。
イタリアの老舗高級レストラン「ハリーズ・バー」の支店がロンドンにあり、高校の同級生がイギリスの貴族階級出身で、彼と食前酒を飲むためだけにそこを訪れたことがあり、同店発祥のカクテル、ベリーニを飲みながら、いつかベニスの本店に行きたいと思っていました。
ベニスに行ったとき、念願の「ハリーズ・バー」本店を訪ねました。
タリオリーニという細めの平麺を使ったパスタ料理と、同店発祥のデザート、メリンガータが感動的に美味しかった。
クラシックで高級感ある空間は、いまだに唯一無二な空間だと思います。
ギルドホール音楽演劇学校在学時は、2年生が終わる夏休みに、イタリアのトスカーナ州ピサ県にあるサン・ミニアート村に合宿に行きました。イギリスのみならず、デンマークやフランス、イタリア、アメリカなどの国の学生が集まっていました。
食事の時間は、ワインが安くて美味しく、イギリス人は酒好きが多いので、毎晩イタリア人が驚くほどの量を飲みました。
ある日、食事の世話をしてくれる合宿所の寮母が、申し訳なさそうな顔をして「ごめんなさい。皆さんがワインをたくさん飲むから、安いワインの在庫がなくなってしまったの。今日から高いワインしか出せないけどいい?」とたずねました。
私が「いくらなの?」ときくと「1本3ユーロ」と答えるから「どんどん持ってきてください」とお願いしました。
それから、イタリアのワインも好きになりました。いまでも、家でワインを飲むときは、イタリアワインだけです。
4.ビスボッチャとの出会い
はじめてビスボッチャを訪ねたのは、ロンドンの高校に留学しながら、一時帰国したときです。
日本でもイタリアンが食べたくなり、イタリアで感動したようなレストランがないか探していました。日本にありがちな総花的なイタリアン・レストランではなく、本場の雰囲気と味を忠実に再現するイタリアン・レストランです。
そこで、探し当てたのがビスボッチャでした。理想通りで気に入り、帰国するたびに利用するようになりました。
激変する東京のレストランのなかで、長年変わらないのが珍しい。その一方で古ボケないのは、ちゃんと手入れをして、変わっているものもあるからだと思います。
私は定番メニューがあるのが、すごく大事だと思っています。定番があるから、マンスリーメニューで革新的な冒険ができる。
定番だけだと飽きるし、革新だけだと落ち着かなくて、両方あるのが面白い。
店内の雰囲気も魅力的で、異国感を通り越して、異空間になっています。
日本人の伝統的な世界観のハレ(お祝い)とケ(日常)のどちらでも使えます。その中間を能狂言で「あわい」と表現しますが、そんなイメージで、決してフォーマルではなく、気取らない部分もあります。
はじめてイタリアに行ったとき、イタリア人は大人で余裕があると感じました。知り合うと子どもっぽくなるけれど、子どもっぽくなれるのが逆に大人だと思いました。
たぶん、古いものを継続的に持っているから、余裕があり、気取らないのだと思います。
同じような印象を、ビスボッチャにも感じています。
(取材 2024年12月 写真・文:ライター 織田城司)