ビスボッチャ散歩:伊達坂

(上の写真は恵比寿3丁目交差点)

WALK AROUND LA BISBOCCIA  Vol.11 “ Datezaka ”

第11回 写真・コラム/ライター織田城司  Photo & Column by George Oda

坂の上の武家屋敷

ビスボッチャの街をめぐる歴史散歩のコラム。今回は、ビスボッチャの隣町、恵比寿3丁目で武家屋敷の跡地を歩きます。

伊達坂の地図

伊達坂の歴史

ビスボッチャは、恵比寿2丁目にある。

隣の恵比寿3丁目の旧町名は、「伊達町」であった。

「伊達町」と呼ばれていたのは、1928(昭和3)年から1966(昭和41)年までである。

町名の「伊達」は、江戸時代に伊達家の武家屋敷があったことに由来する。

伊達家は、四国の宇和島藩を統治していた。

宇和島藩は、愛媛県宇和島市近辺を領とし、仙台藩の伊達政宗の息子、伊達秀宗が分家し、1615年から入国したことから始まる。

やがて、宇和島藩伊達家は、1718年から恵比寿3丁目に屋敷を構え、幕末まで使用した。

伊達坂下に至る旧街道

当時、各藩は、江戸幕府から江戸城近くに一藩一つずつの屋敷が支給されていた。これが上屋敷で、藩主一家の住居であった。

上屋敷は、参勤交代で新しい藩主が江戸に赴く際にお伴する家臣の宿泊や、江戸駐在員の増加で手狭になると、各藩は中屋敷や下屋敷を自前で追加した。

宇和島藩伊達家の上屋敷は、六本木の国立新美術館の敷地にあった。恵比寿3丁目の屋敷は、下屋敷にあたる。

それでも、その敷地は、約11,000坪(36,300㎡)あったそうだ。横浜スタジアム(球場面積35,400㎡)1個分に相当する面積である。

当時、恵比寿3丁目は、草原の合間に農家が点在する田園風景のなかにあり、高台にある広大な伊達家の屋敷は、ランドマークになる存在感があった。

それゆえ、街道から伊達家の屋敷に上る坂道は、いつしか「伊達坂」と呼ばれるようになった。

伊達坂を上る

旧街道から伊達坂下を望む

伊達坂は途中から右に曲がり、勾配が急になる。その先は左に曲っている

伊達坂の左に曲がる地点から伊達坂上を望む

伊達坂上の近くから正面の住宅地を望む。この住宅地が伊達家の屋敷跡

伊達坂上から伊達坂を振り返る

伊達坂上の路地。右側が伊達家の屋敷跡。車が停車している位置が屋敷の正門があった場所付近で、奥に続く屋敷跡の中間点にあたる

伊達坂は、急な坂道だった。屈折を加えたのは、急勾配をやわらげるためであろう。

もとは崖のような地形だったと思う。坂の上で振り返ると、高台の視界を感じた。

いまはマンションが並んで遠くは見えないが、伊達家の屋敷があった頃は、ビスボッチャの敷地の前身、「つくし野」と呼ばれた草原もよく見えたと思う。

伊達家の門 

伊達家の門の正面。江戸東京たてもの園にて撮影

明治維新後、武家屋敷は新政府に接収され、建物は解体、土地は売却され、次第に姿を消した。

伊達家の下屋敷もこのとき消滅したのであろう。跡地は住宅やマンションが密集し、武家屋敷の面影は残っていない。

その後、宇和島藩伊達家は、明治の華族令で「侯爵」の爵位を与えられ、港区白金2丁目に東京の屋敷を構えていたことがある。

その表門が「江戸東京たてもの園」に移築保存されているので見に行った。 

この門は、大正時代の建築だが、江戸時代の武家屋敷の門を模してつくったそうで、雄壮かつ重厚な迫力がある。

恵比寿3丁目の武家屋敷にも、このような門があったことをしのばせ、侍の威厳を感じた。

伊達家の門を正面右側から見る。右の丸い屋根の建物は門番が詰める番所

番所の屋根の装飾

番所内の三畳間。右に六畳間もある

門の屋根瓦の装飾。複数あった伊達家の家紋のひとつ「丸の内に竪三つ引」が見られる

門柱の装飾。複数あった伊達家の家紋のひとつ「竹に雀」を木彫りで造作

門を見ているうちに、黒澤明監督の時代劇映画『椿三十郎』(1962年)を思い出した。

三船敏郎演じる浪人は、剣術の腕を見込まれ、藩からスカウトの打診があり、武家屋敷に出向く。

浪人は、門をドンドンと叩くと、番所から出てきた門番から「なんだ貴様、今はそれどころじゃない!」と言われ、門前払いをくらう。

伊達坂も多くの侍がさまざまな思いで上ったことであろう。

そんなことを考えながら眺めると、何でもない坂も味のある坂に見えてくるから不思議である。

伊達のなごり

伊達坂の近くにある歯科医院

伊達坂の近くにあるマンションの表示

伊達坂上にあるゴミ集積場の看板。伊達町会の文字が残る

「伊達町」の町名が恵比寿3丁目に変わってから、50年以上の歳月が経つ。 

それでも、町中をよく見ると、「伊達」の名を掲げる看板がいくつかある。

町に武家屋敷があったことに愛着を持つ人は少なくない。

伊達児童遊園地の看板

伊達児童遊園地

侍は明治の国際化で姿を消したが、どこか憎めないところがある。 

それは、侍に日本人らしさを感じるからであろう。

伊達児童遊園地

散歩の後のお食事は、

「ラ・ビスボッチャ」でお楽しみください。