ワインと生きる
ワインや食材の生産者さんをお招きして、ディナーに来店されるお客さまと交流していただくイベント「メーカーズ・ディナー」
9月28日(水)は、イタリアのワインメーカー「マシャレッリ」の国際輸出部長、フェデリカ・ロッソディヴィタさんが来店されました。イベントの模様とインタビューを紹介します。
監修:料理長 井上裕基 写真・文:ライター 織田城司
1.マシャレッリとメーカーズ・ディナー
マシャレッリ
マシャレッリは、イタリア中部アブルッツォ州で1981年、ジャンニ・マシャレッリさん(1956〜2008)が20代なかばで、自宅の前に広がる2haほどのブドウ畑を活用して創業したワインメーカーです。
そのワインの美味しさが評判になり、ワインの生産量も増え、現在ブドウ畑は440haの規模に広がりました。
近年は、オリーブオイルの生産にも力を入れ、専業メーカーを傘下に入れ、オリーブの栽培から瓶詰めまで行っています。
また、文化事業として、アブルッツォ州の貴族が残したセミヴィコリ城を買い取り、古い建築を保存しながら部分的に改装を加え、2009年にホテルとしてオープンしました。
創業者のジャンニ・マシャレッリさんが2008年に52歳で亡くなった後、夫人のマリナ・ツヴェティッチさんと家族と仲間が経営を続けています。
ビスボッチャのメーカーズ・ディナー
ビスボッチャの店内には、3つの部屋に100席ほどのキャパがあります。このため、メーカーズ・ディナーは、セミナーや食事会のスタイルではなく、生産者さんがお客さまごとのテーブルをまわり、ご挨拶しながら、商品説明をしたり、質問を受けたり、記念撮影に応じたりしながら、商品に親しんでいただくスタイルです。
当日のグラスワインの注文は、マシャレッリの白ワイン2種、赤ワイン3種に集約しておすすめしました。
フェデリカさんは、マシャレッリの日本の輸入代理店、(株)オーデックス・ジャパンの社員と共に来店し、会食した後、お客さまのテーブルをまわりました。
お客さまは、いま飲んでいるイタリアワインの生産者さんと直接話ができる貴重な機会を喜びました。
2. フェデリカさんが語るワインとイタリアン・ライフ
ワインは人生そのもの
フェデリカさんに、マシャレッリのワインをどのように売り込むのかたずねました。
「マシャレッリのワインを一言でいうと、イタリア語でアウテンティコ(autentico)、英語ならオーセンティック(authentic)です。
何も変えない、市場に合わせないことが、未来のアートにつながります」
その一方で、「いいワインはない」が持論だという。著名ブランドや生産年、受賞歴がすべてではないという考え方だ。
「ワインの味はどれもちがいます。どれが美味しいと思うかは、あくまでも個人の問題です。人それぞれ好みが違っていい。
ワインは誰と飲むか、どこで飲むかによっても味が違って感じます。ワインは人生そのものです」
フェデリカさんの来日は2度目。初来日はコロナ禍以前の2019年。福岡や長野、大阪、神戸などのレストランを訪問。
2020年に世界規模でコロナ禍が発生すると、海外営業は休止。再開した今年は、東京と横浜のレストランを訪問した。イタリアではコロナ禍をどのように捉えているのか。
「イタリアはコロナ以前の生活に戻りました。レストランもノーマスクです。ただ、交通機関のなかだけは、マスク着用です。それよりも深刻なことは(ウクライナ情勢の影響で)電気代やガス代が高騰し、生計を圧迫していることです。
とはいえ、どのような環境でも、常に人生をエンジョイする方法を考えることが、イタリア人のD N Aです。
イタリア語の『トゥット・ベーネ(tutto bene)』は、とても元気という意味です。
イタリア式の挨拶では、人と会い、『トゥット・ベーネ?(元気かい?)』と声をかけられたら、『トゥット・ベーネ!(元気だよ!)』と答える習慣があります。ノーはありえません」
◆ビスボッチャの会食でフェデリカさんが注文したメニュー
前菜:ブラータチーズと黒イチジクのサラダ、生ハム、ポルチーニ茸のソテー、白トリュフのパルミジャーノ・エッグ(生ハムを除き9月限定メニュー)
パスタ:和牛のピリ辛ラグーのパッパルデッレ(9月限定メニュー)
メイン:キアニーナ牛Tボーンの炭火焼き(期間限定メニュー)
付け合わせ:ミックスサラダ、ポテトフライ(年間定番)
デザート:ミルフィーユ、ボスカイオーラ、紅茶・レモンジンジャー(年間定番)
◆フェデリカさんがおすすめするマシャレッリ・ワインのペアリング
フェデリカさんが会食の席で、ビスボッチャのメニューに合わせておすすめされたマシャレッリ・ワインとのペアリング。
①「和牛のピリ辛スパイシーラグーのパッパルデッレ(9月限定)」に、マシャレッリの白ワイン「マリナ・ツヴェティッチ シャルドネ」を合わせて
「創業者が、奥さまの名前をつけたワインのシリーズです。奥さまは創業者亡き後、現在の当主を務めています。
シリーズのなかで、シャルドネ種のブドウを使った、こちらの白ワインは、力強くシャープな辛口です。白ワインだけれども、ピリ辛パスタに負けず、ちょうどよく合います」
②「キアニーナ牛 Tボーンの炭火焼き」に、マシャレッリの赤ワイン「ヴィラ・ジェンマ モンテプルチアーノ・ダブルッツォ」を合わせて
「創業者の生家であり、自らワイナリーを創業した地の名『ヴィラ・ジェンマ』を銘柄にした、マシャレッリ最高級の赤ワインです。
土着のブドウ、モンテプルチアーノ・ダブルッツォを深めた味わいは、パワフルでスパイシーな辛口が奥深く広がります。キアニーナ牛の炭火焼きによく合います」
会食の後、フェデリカさんにビスボッチャの料理の感想をたずねました。
「フルハウス!(満席ね!)モルト・ボーノ!(とても美味しい!)フード・グレイト!ワイン・グレイト! 世界で2番目にイタリア料理が美味しい国は、日本だと思います」
フェデリカさんは和食も好きだそうです。特にラーメンが大好きで「近くに辛いラーメン屋はないかしら?」と問い合わせがあり、ビスボッチャのスタッフが教える一幕もありました。
3.ニーノさんがマシャレッリと出会うまで
ワインは顔で選ぶ
マシャレッリのワインを1994年から日本に紹介している輸入卸売業の(株)オーデックス・ジャパン社は現在、ヨーロッパを専門に、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、オーストリアの5カ国のワインを輸入しています。
社長のニーノ・モリ(本名:森俊彦)さんが、約50年間のワインビジネスでたどり着いた境地は「ワインは顔で選ぶ」
いいワインを選ぶには、堅苦しく語らず、生産者さんの顔で選ぶ。いいワインをつくる生産者さんは、みんないい顔をしている、が持論です。
マシャレッリのワインと出会うまでの歴史をたずねました。
ニーノさんの略歴とフランスワインとの出会い
1944年 兵庫県加古川市生まれ
1963年 東京外国語大学ドイツ語科入学
学生時代は、J T Bのアルバイトで、日比谷の帝国ホテルから箱根の富士屋ホテルに移動する外国人観光客の通訳として活躍。
1966年 アルバイトで貯めた資金で、ドイツの大学に1年間留学
1968年 東京外国語大学ドイツ語科卒業。同年、丸紅株式会社に入社
1969年 音響・映像機器メーカーの赤井電機株式会社に入社
当時、赤井の高性能なオーディオ機器は海外で人気があり、輸出比率は95%。ヨーロッパの輸出を担当しながらフランス料理とフランスワインに興味を持つ。
1972年 28歳のとき、独立して起業。現在まで続く東京都港区高輪の地で(株)オーデックス・ジャパンを設立。欧米のオーディオ機器とフランスワインの輸入をはじめた。
バブル景気とフランスワイン
ニーノさんは、オーデックス・ジャパンを設立した当時、海外のオーディオ機器も扱っていたと回想する。
「起業当時は、オーディオブームでした。人々は、レコードをいい音で聴かせるオーディオを、家に置くことに憧れていました。
私が輸入したビートルズの国、イギリスのオーディオは、日本のオーディオ売場では、ロールスロイスのように、最高級品の扱いでした。そんな時代背景のおかげで、いいスタートができました。
そのうち、若い社員が育ってきたから、オーディオはまかせ、私はやりたかったワインに集中することにしました。
大手の代理店も参入してきたので、自分は大手と違うことをやろうと思い、レストランに直接売り込みました。
1980年代になると、銀座の一流店で高級ワインが売れるようになりました。フランスワインの『ロマネコンティ』など、高級ブランドのリクエストが増えました。
ボルドーの60年代物や70年代物など、レアな高額品も売れるようになりました。
景気のいい経験をしたけれども、私が意識したわけではありません。
世の中がバブル景気に向かう時代で高額品が売れ、私がフランス語の会話ができて、商品フォローがうまくできたことが背景だと思います」
イタリアワインとの出会い
1990年代になると、バブル景気が崩壊。経済は低成長期に入り、高額品の動きは止まり、ユニクロや100円ショップなどが台頭してきました。
そのころ、ニーノさんは健康を意識するようになり、ヘルシーなイタリア料理に注目し、イタリアのワインにも興味を持ちました。
「1970年代から80年代までの外食産業、たとえばフレンチやイタリアン、和食などは、全体的に『見掛け倒し』が多かった印象です。素材ではなく、目に訴える。
でも、実際にイタリアに行ってみると、イタリア料理は、素材の良さをそのまま上手に引き出している。しかも、安い素材で。
特に、ナポリに行くと『貧乏人のパスタ』のようなメニューがあり、家庭料理や、まかないご飯のような、素朴な料理が持つ美味しさに気がつきました。
合わせて飲むイタリアワインも気取りがなく、素朴で力強い味が魅力で、日本に輸入したいと思いました。
そこで、イタリアワインの調査をはじめると、イタリア北部ピエモンテ州のワイナリーの4代目当主で、革新的なワインづくりで新境地を切り開く、アンジェロ・ガヤさんの高評価が目につきました。
読むほどに興味がわき、ワインの興味以上に、アンジェロ・ガヤという人に会ってみたいと思いました。
そこで、友人を介し、アンジェロさんが来日する機会があったら、一緒に食事をしたいと伝えてもらいました。
その機会が実現したのは、忘れもしない、1994年4月28日でした。当時銀座1丁目にあった、ホテル西洋銀座に出店していた日本料理店『吉兆』で、アンジェロさんと会食しました。
そのとき、私はアンジュエロさんに、イタリアのワインを輸入したくて、イタリア語の勉強をはじめた。2年経って会話ができるようになったら、あなたのワインを輸入する商談をしたい、と伝えました。
すると、アンジェロさんは、あなたが2年かけてイタリア語の勉強をするのはいい。でも、私のワインの輸入は、今日からはじめてください、といわれました。
当時、アンジェロさんは、ピエモンテ州のワイナリーが手狭になり、トスカーナ州のワイナリー『ピエヴェ・サンタ・レスティトゥータ』を買収し、土着のブドウ、ブルネロ・ディ・モンタルチーノを使ったワインづくりの改革に着手していました。
私は、このワインを、その日から10年間、日本に輸入しました。いまは契約が終了していますが、アンジェロさんとの家族がらみの付き合いは続いています。
あるとき、アンジェロさんと、紳士服ブランド『ブリオーニ』のC E Oウンベルト・アンジェローニさん、レストラン『ビラ・マイエーラ』のシェフ、ペッピーノさんの3人と一緒に登山へ行ったことがあります。アブルッツォ州で2番目に高い山『モンテ・アマーロ(標高2,793m)』でした。
実は、その登山は、ジャンニ・マシャレッリさんのお葬式の後でした。故人ゆかりの地を、故人と親しかった人が歩き、故人を偲ぶ。アンジェロさん流のお弔いでした。
ジャンニ・マシャレッリさんは、アンジェロさんに、むき出しのライバル心を燃やしていました。アンジェロさんはこんなことやらないだろ!俺はここがちがう!と熱く語っていました。
もちろん、憎み合っていたわけではなく、スポーツ選手のように、ライバルから刺激を受けながら、自ら精進する相手として、お互い認め合っていたのでしょう。
黙々と登山を率いるアンジェロさんの背中に、ワインと生きる人々の矜持を感じました。
今年のお盆休みは、私の新婚旅行を兼ね、2週間イタリア旅行へ行ったとき、アンジェロさんはバルバレスコで3日間アテンドしてくれました」
マシャレッリとの出会い
ニーノさんはアンジェロさんとの取引がはじまった1994年、イタリアワインの輸入をもっと増やそうと調査を続けていると、アブルッツォ州のワイナリーの当主、エドアルド・ヴァレンティーニさんの活躍に注目しました。
「ヴァレンティーニさんとも友だちになりたいと思いました。そこで、東京からヴェレンティーニさんに片言のイタリア語で電話すると、どこから電話しているの?ときかれました。
私は、東京から電話している、と答えると、ヴァレンティーニさんから、イタリアの土を踏んでから電話してきたら、お話を聞きます。今日はそれ以上だめです、といわれました。
私はすぐにイタリア行きの航空券を手配し、ミラノのマルペンサ空港に着くと、ヴァレンティーニさんに電話しました。
喜んでくれて、ワイナリーまで来てくださいといわれ、アヴルッツォ州まで行きました。しかし、ヴァレンティーニさんに輸入の話をすると、すでに日本の代理店が決まっているということで、諦めて帰国しました。
再びイタリアのワイナリーの調査を続け、当時出はじめたイタリアのワインガイド誌『ガンベロロッソ』を分析した結果、同じくアブルッツォ州でワイナリーを創業したジャンニ・マシャレッリさんが、これから一番伸びると思いました。
そこで、ジャンニさんに電話をすると、すごく喜んでくれました。電話口の向こうで、日本から電話だ!しかもイタリア語だ!と家族で騒ぐ声が聞こえました。
当時、イタリア人は、日本は偉大な国という思いを持っていましたから、すぐに来て下さい、といわれました。
ローマのフィウミチーノ空港に着くと、ジャンニさんが車で迎えに来てくれました。運転するお父さんは、いかにも田舎のおっちゃん、という風情でした。
昼食はローマのどこかで会食して、夜はジャンニさんの自宅、彼の最高級ワインの銘柄にもなっている『ヴィラ・ジェンマ』で歓迎してくれました。
素晴らしいテラスがあり、前にブドウ畑が広がっていました。地元の名店『ビラ・マイエーラ』のシェフ、ペッピーノさんも呼んでくれました。
ジャンニさんは、10代後半のころ、フランスのシャンパーニュで季節労働者として働くうちにフランスワインと出会いました。
やがて、故郷イタリアのアブルッツォ州でもいいワインができると確信し、自宅の前に広がる小さなブドウ畑に入り、ワインづくりをはじめたそうです。
当時、アブルッツォ州は、日本の旅行ガイド誌『地球の歩き方』に、イタリアの州のなかで、唯一掲載されていなかった、マイナーな州でした。
でも、ジャンニさんの歓迎で、すっかりアブルッツォ州が好きになり、1994年からジャンニさんのワインの輸入をはじめました。
そのころ、日本の外食産業では、1993年にビスボッチャが開店したように、日本人がイタリア人から学んだイタリア料理の真髄を、上手に再現するレストランが増えてきました。
イタリアのファッションやインテリアなどもブームになり、イタリアの魅力が広く知られ、イタリア旅行に行きたがる日本人も増えました。
1999年の年末に、出張で降り立ったローマのフィウミチーノ空港は、成田空港かと思いました。2000年のミレニアム記念のニューイヤーを、イタリアで迎えようとする日本人観光客であふれていました。
おかげさまで、マシャレッリのワインの輸入を、ずっと続けることができました」
4.まとめ
ワインをもっと楽しく
アブルッツォ州は、大都市ローマに移住して働く若者が多く、過疎化が進む一方で、豊かな自然が残っていたのかもしれません。
そこに注目して、故郷の土壌の良さを引き出したジャンニさんのワインづくりは、いまの日本で提唱されている地方創生の参考になると思いました。
故郷で暮らしていると、故郷の良さがわからないかもしれませんが、ジャンニさんのように、海外や都会に出て、離れた場所から故郷の良さを再発見したプロセスも注目です。
初の東京オリンピックが開催された1964年、日本の海外旅行の自由化がはじまり、海外を見聞することに関心を持ち、ビシネスに結びつける日本人が増えました。
ニーノさんは、その頃からヨーロッパのワインに興味を持ち、日本に紹介する橋わたし役になった先駆的存在であり、今日まで続く輸入ワイン史の生き証人、レジェンドであり、いまも第一線で活躍する現役でもあります。
ニーノさんは、インタビューの合間に「ワインのことをあまり難しく語りたくない」と何度もおっしゃる姿が印象に残りました。マニアだけでなく、より多くの人々にワインを楽しんでもらいたい、という思いを感じました。
イベントでテーブルごとにお客さまと交流したニーノさんは「みなさんの幸せそうな顔がより輝きました」と語り、フェデリカさんは「日本人のイタリア人好きを感じました」と語りました。
店内では、マシャレッリのボトルワインのテイクアウト販売も行われ、ディナーの帰りに購入するお客さまの姿も見られました。
コロナ禍で中断していたメーカーズ・ディナーは、約2年半ぶりに再開しました。対面の商売を大切にするイタリア人との交流は、商品の印象をより深める効果がありました。