WALK AROUND LA BISBOCCIA Vol.12 “ Saigoyama Park ”
第12回 写真・コラム/ライター織田城司 Photo & Column by George Oda
明治の栄華の面影
ビスボッチャの街をめぐる歴史散歩のコラム。今回は、目黒区の西郷山公園を中心に、明治の栄華をめぐります。
西郷山公園の地図
1.人名に由来する西郷山公園
◆華やかな社交場
「西郷山公園」の西郷は、明治時代に西郷従道(さいごうじゅうどう1843〜1902)が邸宅を建てたことに由来する。
西郷従道は、西郷隆盛の弟で、明治時代に政治家や軍人として活躍した。
邸宅の広さは約2万坪ほど。東京ドーム1.4個分に相当する広大な土地だった。
西郷従道はこの土地に庭園や農園、洋館、和館を建て、政財界人を招く社交パーティーを度々開いた。
その盛況ぶりは1889(明治22)年、明治天皇の行幸でピークを迎えた。
こうした華やかな暮らしが評判になり、邸宅のある高台はいつしか西郷山と呼ばれるようになった。
◆江戸時代のリゾート地
明治の政財界人の間では、大名屋敷の跡地を邸宅用に購入し、庭園に凝り、洋館を建てることがステイタスだった。都内の大庭園はだいたいこのような流れで成り立っている。
西郷従道もこうした時流の中で、1874(明治7)年にこの土地を購入した。
目黒川東岸の高台は江戸時代、富士山の絶好のビュースポットとして人気があり、大名の別荘が建ち並ぶリゾート地だった。西郷邸の土地も、もとは大分県の岡藩の別荘地にあたる。
明治時代にこの土地が売りに出ると、政治家の間で評判になった。多くの政治家が土地代を値引きするなか、値引きせずに交渉した西郷従道が入手したそうだ。
◆広い空の開放感
公園の入口からゆるやかな階段を登ると視界が開け、高台にある広場が現れる。
広場のまわりは樹齢を重ねた樹木が茂る。
樹木を見上げると、高台ゆえに、付近のビルは視界に入らず、空が広く見え、開放感があった。
そこが、都内の他の公園とちがう特徴だ。
園内は一人で黙々と散策をする人の姿が目につく。
自然に触れることや、軽めのアップダウンに運動を兼ねる人が多いのであろう。
2.通りの名にもなった西郷山
◆軽登山気分を楽しむ
地下鉄中目黒駅から西郷山公園に至る道には「西郷山通り」という名がついている。
この通りは西郷山の麓にあたり、ここから坂道を登り、さらに「西郷山公園」の階段を登り、高台の広場に出ると感動が増す。
「西郷山公園」の最寄駅は代官山だが、中目黒駅から「西郷山通り」を使うルートは、軽登山をしたかのような気分になり、おすすめだ。
沿道には、ファッショナブルな中目黒らしいブティックやカフェが点在する。
その合間にレトロな商店も残り、公園に着くまで、東京らしい脈絡の無い混沌感を楽しむ。
3.西郷従道の洋館を明治村で見る
◆明治の洋館を体感する至福
西郷従道は1880(明治13)年、上目黒の邸宅の土地に、社交場に使う目的で洋館を建てた。
西郷家が1941(昭和16)年に渋谷に移転すると、同地は箱根土地会社に売却され、その後、国鉄の所有となった。
その間に、土地の中心部は宅地用に売却され、庭園は荒れ、池は埋め立てられた。
第二次世界大戦中の空襲により、西郷邸の和館は焼失したが、洋館はかろうじて戦火を免れた。
残された洋館は、1950年代にプロ野球の球団、国鉄スワローズの宿舎として利用された。
当時の国鉄スワローズの主力投手、金田正一も宿泊した。
1960年代になると。高度成長で経済が発達する一方で、宅地開発による環境破壊や、公害による健康被害が社会問題になった。
西郷邸の洋館も存続の危機にあり、愛知県の「博物館明治村」に移築保存された。
「博物館明治村」は明治期の建造物の保存と活用を目的として設立され、西郷邸の洋館の移築を契機に1965(昭和40)年に開業した。
同時に、西郷邸の洋館は、明治の政治家の暮らしを知る貴重な文化財として、国の重要文化財に指定された。
西郷邸の洋館の見どころは、フランス人建築家ジュール・レスカスによる華麗な曲線美のデザイン、当時としては珍しい耐震構造、和洋折衷デザインの家具、館内に展示されている鹿鳴館の椅子などである。
どれも現在では考えられない贅沢さ、美しさがある。
ベランダに出て景色を眺めると、つかの間だが、明治の貴族になったようで、優雅な気分になった。
4.菅刈公園の大イチョウ
◆2つの公園を歩いて感じる文明と自然
目黒区は、人手に渡った西郷邸跡地を買い上げ、公園として整備した。
中心部が宅地に売却されたことで分断された土地の東側を1981(昭和56)年に「西郷山公園」として開園。
西側を2001(平成13)年に「菅刈公園」として開園した。
西郷従道らが推進した文明開化や、その後の経済成長は、日本を世界の大国にのし上げた。
その一方で、アスファルトや建物に覆われた都市は、ヒートアイランド現象によるゲリラ豪雨で水害が起こりやすくなり、災害時の避難所も少なくなった。
このため、文明と相反する自然との共存が提唱され、公園や緑地の拡大が計画的に行われるようになった。
その因果で、西郷従道が趣味で造園や栽培を楽しんだ緑地が見直されたことに、歴史のめぐりあわせの皮肉を感じた。
西郷邸の洋館が建っていた跡地は「菅刈公園」にある。
ここの見どころのひとつは、洋館に隣接していた日本庭園である。
近年復元され、埋め立てられていた池が復活し、西郷従道が回遊を楽しんだ姿を偲ぶことができる。
もうひとつの見どころは、大イチョウである。
洋館の隣にあったイチョウが同じ場所で現存している。
1889(明治22)年5月24日、西郷邸で明治天皇の行幸が行われた。
明治天皇は洋館2階のベランダに設けられた貴賓席で、庭園の特設ステージで催された、おもてなしの相撲や踊りを見物された。
当日の来賓は、皇族や総理大臣、閣僚などが約200名集まり、盛会だった。
主催者の西郷家は、大イチョウを中心に幕を飾り、催しの雰囲気を盛り上げた。
今年の夏、私の家の近所で、幼い頃から親しんだ大樹が、いつの間にか伐採されていることに気がついた。
セミが集まって、うるさいほど鳴く大樹だったが、いざ無くなると、故郷の景色がまたひとつ消えたと思った。
明治天皇もご覧になった菅刈公園の大イチョウは、文明の波にもまれながらも生き残り、何事もなかったように人々を見守り、目黒区最大級のイチョウに成長した。
その姿は雄大でありながら、おだやかで、あたたかい。
散歩の後のお食事は、
ラ・ビスボッチャでお楽しみください。