映画で装うレストラン「お祝い」

COLUMN   CINEMA DINNER FASHON #2

コラム『映画で装うレストラン』第2回

「お祝い」

映画に登場する食事のシーンと着こなしを解説する連載コラムです。イラストは綿谷寛さんの描き下ろしです。第2回は、お祝いの描き方に見る、監督のまなざしに思いをめぐらせます。

イラスト/イラストレイター 綿谷寛
写真・コラム/ライター 織田城司
監修/料理長 井上裕基
Illustration by Hiroshi Watatani
Photo・Column by George Oda 
Produce by Yuuki Inoue 

 

『ナポリ湾』

(1960年・アメリカ
監督:メルヴィル・シェイブルソン
出演:クラーク・ゲーブル、ソフィア・ローレンほか

「お祝いのワインだ!」

1950年代末、イタリア南部ナポリ湾のカプリ島で、ナイトクラブのダンサー(ソフィア・ローレン)は、裁判で勝訴したお祝いに、応援してくれた関係者を自宅に招いた。

ブルーのノースリーブのワンピースを着て、赤ワインを開け、テーブルの上にパンとチーズ、サラミソーセージを盛り付けて振る舞う。

ワンピースのブルーは、少しグリーンが混ざった中濃のブルーで、カプリブルーとよばれるご当地色だ。

ダンサーの姉は、アメリカ人と結婚していたが、夫婦はヨットの事故で亡くなり、残された男の子を育てていた。

アメリカ人の義理の弟(クラーク・ゲーブル)が兄の財産整理でカプリ島に来ると、男の子の育て方をめぐって争いながら、恋の駆け引きをするストーリー。

アメリカ映画のスタッフがイタリアでロケした作品で、観光要素が強く、ナポリの街や青の洞窟などが映り、旅行気分に浸れる。

アメリカとイタリアの文化交流も描かれ、クラーク・ゲーブルが男の子にチーズバーガーの調理や野球を教えるシーンもある。

クラーク・ゲーブルがナポリ駅に着くシーンでは、グレーのスーツスタイル。都会の高層ビル街のモダンなイメージに合い、当時のアメリカで流行していた色だ。

駅で出迎える現地の弁護士(ヴィットリオ・デ・シーカ)はベージュのスーツスタイル。

イタリアは古都保存のため、茶色い瓦やベージュの壁の古風な建物が多く、ベージュの服が合う。国籍のちがいをスーツの色で表した。

クラーク・ゲーブルは物語が展開するにつれ、ベージュのセーターやブルーのリネンシャツを着る。

カプリ島の自然に癒され、徐々になじんでいく姿が面白い。おそらく、現地で買い足した設定なのであろう。

東京は広く、これという街の色はないけれど、ベージュの服は、春夏の気分として楽しみたい。

 

『イル・ポスティーノ』

(1994年・イタリア
監督:マイケル・ラドフォード
出演:マッシモ・トロイージ、フィリップ・ノワレほか

イル・ポスティーノは、イタリア語で「ある郵便配達人」の意味で、本作の主人公を表す。

共演する南米チリの詩人は、1973年にノーベル文学賞を受賞したパブロ・ネルーダがモデルになっている。

パブロ・ネルーダは1950年代、政治的な要因で国外追放になり、イタリア南部カプリ島で暮らした史実をもとに創作したドラマ。

島で暮らす詩人(フィリップ・ノワレ)宛に、たくさん送られてくるファンレターを届けるため、郵便局に臨時採用された郵便配達人(マッシモ・トロイージ)は、詩に興味をもつ。

詩人に郵便を届けたとき、詩作について質問しながら親しくなっていく。

やがて、郵便配達人は食堂で働く女性と婚約すると、詩人に立会人を依頼した。

結婚披露宴は食堂で行われ、町中の関係者がお祝いに集まる。新郎は黒いスーツにライトグレーのネクタイ。新婦は白いウエディングドレス。

詩人は茶系のスーツにワインカラーのネクタイ。渋めながら歳相応の華やぎがあり、粋に見える。

その日、詩人宛に国外追放が解除になった電報が届き、詩人は間もなくチリに帰国した。

郵便配達人は寂しくなり、詩人に「この島の美しいものを言いなさい」と問われ、答えられなかったことを思い出す。

そこで、島で美しいと思うものを音に置き換え、波の音や風の音をテープに録音して詩人に送ることにした。

自分が暮らす街で、何を録音するのか考えると、なかなか難しい。詩がテーマの映画らしく五感が刺激される。 

本作は、郵便配達人を演じたナポリ出身のマッシモ・トロイージが、ナポリ湾が舞台の原作小説に感銘して、企画と脚本を手がけ、ロケ地もナポリ湾で探した。

イタリア人から見たナポリ湾は、観光名所はほとんど出てこないけれど、無名の海岸や島、岩肌などに風情があり、土着感がよく表れている。

それが、マッシモ・トロイージが感じた「美しいもの」なのであろう。

ラ・ビスボッチャ店内

 

『泥棒成金』

(1955年・アメリカ
監督:アルフレッド・ヒッチコック
出演:ケーリー・グラント、グレース・ケリーほか

「ワインをもう一杯いかがですか?」 

1940年代末、南仏の別荘で隠居していた元宝石泥棒(ケーリー・グラント)は、英国の保険会社の調査員をランチミーティングに招き、取引成立のお祝いに白ワインのおかわりをすすめた。

 物語は、南仏カンヌの高級ホテルで、貴婦人の宝石を狙った盗難が多発するところからはじまる。

警察から無実の罪で疑われた元宝石泥棒は、自ら真犯人を捕まえるため、多額の盗難保険の支払いに困っていた保険会社の調査員に声をかけた。 

盗難保険をかけた顧客リストをもらい、その顧客を張り込み、現れた真犯人を捕まえ、盗難品を返すことが取引の条件だった。

このシーンで、保険会社の調査員はダークスーツとネクタイ。元宝石泥棒はグレーのセーターを着て、首にワインカラーのスカーフを巻き、南仏らしいリラックスしたエレガントスタイルを披露している。

白ワインに合わせる料理は、キッシュ・ロレーヌ。ヒッチコック監督は、バカンスを南仏で過ごすことが多く、フランス料理に精通していた。

元宝石泥棒がリストから最初に目をつけた顧客は、アメリカから来た石油成金の未亡人とその令嬢である。やがて、令嬢と恋に落ちていくロマンチック・サスペンス。

この令嬢を演じたグレース・ケリーは、本作が公開された翌年の1956年、モナコ公国の大公と結婚して王妃となり、女優業を引退した。

ヒッチコックは、グレース・ケリーがお気に入りで、何作も起用してきただけあり、最後の出演になる本作に気合が入る。

衣装デザイナーは、ヒッチコックから信頼されていたイーディス・ヘッド女史。

アカデミー衣装デザイン賞を8回受賞、ノミネート35回。映画界を代表する伝説の衣装デザイナーで、彼女もグレース・ケリーがお気に入りだった。

ヒッチコックは後に、フランソワ・トリュフォー監督との対談で、本作のストーリーは軽い話だけれど、グレース・ケリーの描き方にこだわったと回想している。

グレーズ・ケリーは、カンヌの高級バカンスホテルのあらゆるシーン、ビーチやピクニック、ディナー、カジノ、仮装パーティーなどで多彩な着こなしを披露する。 

ヒッチコックは、グレース・ケリーのクール・ビューティーな印象を生かし、冷たそうだけど恋をすると大胆になる意外性を魅力にしようと考えた。

イーディス・ヘッドは、ヒッチコックの意図を色で表現。最初はライトブルーやモノトーンなど、冷たい色の服を着せ、徐々に暖色系に変えていく。暖色は彩度を抑え、パステルトーンのイエローやピンクで上品にまとめた。

グレース・ケリーがスポーツカーを運転してピクニックに行くシーンの衣装は、スポーティーなパンツルックを提案する。

イーディス・ヘッドは前年、『麗しのサブリナ』に主演したオードリー・ヘップバーンに着せたパンツが好評で「サブリナパンツ」の名で流行した実績があった。 

しかし、当時ライバル視されていたグレース・ケリーはエレガントなスカートのスタイルを主張。スポーツカーを運転しながら涼しい顔でスリリングなカーチェイスを演じる意外な組み合わせが、グレース・ケリーの個性を引き立てた。

クライマックスの仮装パーティーは、フランスの宮廷ファッションが華やかだった18世紀のロココ調がテーマ。数十人の招待客が絢爛豪華な古典衣装を着て、優雅にダンスを踊る姿は圧巻だ。

グレース・ケリーは、スカートが落下傘のように大きく広がる金色のイブニングドレスで登場する。ブロンドのヘアカラーと相乗効果でインパクトがある。

共演のケイリー・グラントの衣装は、ネイビーやモノトーンのシックなカラーでまとめ、グレース・ケリーの華やかさを引き立てた。

衣装のサイズ感は、ゆとりの取り方が絶妙だ。グレース・ケリーは、ボディラインを強く出さず、上品にまとめる。ディティールにプリーツやドレープを加え、その上にスカーフやショールを重ね、優雅な曲線美で見せた。

ハリウッド映画全盛時代の豊富な資金力を背景に、希代のスタッフとキャストが集まり、ファッションショーを楽しむようにつくった、ゴージャスな世界を堪能する。

 

『シャレード』

(1963年・アメリカ
監督:スタンリー・ドーネン
出演:ケーリー・グラント、オードリー・ヘップバーンほか

お祝いのスタイルはさまざまで、記念切手もある。

本作のロマンティック・サスペンスのトリックは、切手が重要な鍵に使われた。

パリの公園に露天商が集まる切手市のシーンでは、グレース・ケリーが1956年にモナコ王妃になったことを祝う結婚記念切手も登場する。

1960年代初期、オードリー・ヘップバーン演じる、パリで暮らすアメリカ人婦人は、女友達とスキーリゾートから帰ると、警部から夫が全財産を売却した後に死体で発見されたと告げられ、検死に立ち会う。

時を同じくして現れたケイリー・グラント演じる謎の紳士と犯人を追う。 

衣装はパリのデザイナー、ジバンシィが手がけ、1960年代初期のトレンドを取り入れた。

当時は、ビートルズに代表されるように、ヨーロッパの中産階級出身の若者が生み出す大衆文化に勢いがあり、映画やファッションに影響を与えた。

若者たちは、上流階級のマダムのようなファッションに憧れることなく、シンプルでカジュアル、リーズナブルな独自のファッションを主張するようになった。

服に求める要素は、着やすさだけでなく、服そのものの視覚効果も注目された。

服のフォルムは人体の曲線にこだわらず、直線的なデザインも積極的に取り入れ、人体を新鮮に見せた。

服のディティールは、装飾を最小限におさえたミニマリズムが主流だった。

たとえば、ル・コルビュジエがデザインを手がけ、1959年に東京で開館し、後に世界遺産になった国立西洋美術館のように、シンプルな造形が生み出すダイナミックなインパクトが新鮮に映った。 

服の色柄は、ミニマリズムを反映して無地が主流。色は映画やテレビのカラー化に映える鮮やかなカラーが流行した。

本作では、こうしたトレンドを背景に、オードリー・ヘップバーンは、シンプルでモダン、カラフルな衣装を着こなす。

切手市で着る鮮やかなイエローのコートは、スタンドカラーの襟や短めの着丈で、ウエストがほとんどシェイプしていない筒型のシルエットを強調。ダイナミックなインパクトはトレンドを象徴した。

小柄で華奢なオードリー・ヘップバーンは、このスタイルがよく似合った。

共演するケイリー・グランドの衣装は、シックなカラーの無地でまとめ、胸にポケットチーフはなく、コートの丈も短め。 

ミドルエイジながら、ミニマリズムのトレンドをさり気なく取り入れ、オードリー・ヘップバーンを引き立てた。 

食事のシーンは、ホテルの朝食やランチのサンドウィッチ、セーヌ川の遊覧船のディナーなど、大衆文化にアートを見出す、時代の感覚を反映した。

ラ・ビスボッチャ店内

 

『東京の合唱』

(1931年・日本
監督:小津安二郎
出演:岡田時彦ほか

1929年の世界恐慌が日本に波及した1930年代、初夏の東京、失業して就職活動中の男(岡田時彦)は、中学校の恩師と偶然出会う。

恩師は転職して、洋食屋を開業していた。男は開店祝いを兼ね、洋食屋に中学校時代の友人を10人ほど集め、貸し切りの同窓会を開いた。

恩師は紋付袴で正装する。集まった教え子たちは全員スーツスタイル。

この時代は、洋装のカジュアルウエアはなく、男性はスーツが仕事着と休日の外出着を兼ね、家に帰ると和服に着替えるスタイルが標準だった。

スーツスタイルをよく見ると、ダブルのスリーピースやシングルなどさまざま。ネクタイも無地や柄物、蝶ネクタイなどのバリエーションが見られる。現代のリクルートスーツのように同質化することなく個性がある。

一同はビールで乾杯した後、ライスカレーを食べる。妙な取り合わせだが、小津監督はライスカレーにこだわりがあった。

小津安二郎は1923年、20歳のとき、当時蒲田にあった松竹の撮影所に入社した。監督助手として下働きを続けていた24歳のある日、社員食堂に行列してライスカレーが配られるのを待っていた。

ようやく自分の番だと思った皿は、後から食堂に入ってきた監督の前に置かれた。

怒った小津は「順番だぞ!」と叫ぶと、誰かから「助手は後回しだ!」と野次られ、誰でもかまわず殴ろうとしたところで、周囲の人から止められた。

この小津のライスカレー事件は、すぐ所長の耳に入った。小津は何か処分されるのかと思っていたら、監督に昇進した。

後に、小津監督は、自分が映画監督になれたのは「頭がよかったわけでもなく、腕がよかったわけでもなく、ライスカレーのおかげ」と回想している。

本作の洋食屋の設定は、画面に映る看板を見ると「芝・白金三光町」になっている。これは現在の東京都港区白金あたりの旧町名で、1891(明治24)年に制定され、1969(昭和44)年まで使われた。

港区は明治以降、大使館が多く集まり、外国人が多く住んだ。いまでも白金や広尾界隈では、外国人の家族連れをよく見かける。

小津監督は、そんな街のハイカラなイメージを洋食屋の設定に使ったのであろう。

 

『市民ケーン』

(1941年・アメリカ
監督、脚本、主演
:オーソン・ウエルズ

アメリカで、1895年から1941年まで生きた、架空の新聞王の生涯を描くストーリー。

オーソン・ウエルズが25歳のとき、ハリウッドで初監督した作品。

新聞社の社長(オーソン・ウエルズ)は、地域一番の新聞社になったことを記念して、お祝いの宴会を開く。

余興に十数名の女性ダンサーの歌と踊りがつく盛大な宴会だ。 

出席した40名ほどの男性社員は、ほとんどスリーピーススーツ。この頃は、まだアメリカ独自のスーツスタイルがなく、英国調を踏襲していたことがわかる。

合わせるネクタイは、ネクタイと蝶ネクタイが混在して、過渡期をとらえている。

どちらのネクタイも無地が中心だが、記者のひとり(ジョセフ・コットン)は水玉模様のネクタイ合わせ、社長から「気取っている」といわれる。

ジョセフ・コットンは、別の場面でも水玉模様の蝶ネクタイを合わせ、甘いマスクによく似合った。

本作は、映画の表現力を飛躍的に進化させ、高い評価を得た。しかし、太平洋戦争に突入した日本では、アメリカ映画は上映禁止になり、戦後しばらく経った1966年にようやく公開された。

日本の映画監督・小津安二郎は、戦時下に本作を観た数少ない日本人である。

小津監督は1943年、陸軍からインドの独立をテーマにした記録映画の製作を命令され、準備のために当時日本が占領していたシンガポールに渡った。

しかし、戦局は悪化。映画製作は中止になり、帰国する船も来ないままシンガポールで終戦をむかえた。

小津監督は、その間シンガポールのホテルで、撤退した英国軍が残した、日本で未公開のアメリカ映画のフィルムを観て過ごした。

そのなかで、特にオーソン・ウエルズの『市民ケーン』に衝撃を受けたという。

小津監督は後に、「こわいね。ズブの素人がいきなり作るのだからウカウカしていられないと思った」と回想している。

小津監督は、アメリカ映画の技術力と資金力に圧倒され、真似をしても勝ち目はないと悟り、日本人の持ち味を生かした映画づくりの模索をはじめた。 

小津監督は、戦争が終結すると、現地で英国軍の監視下で収容所に入れられ、ゴム園の強制労働に従事した後、1946年に帰国した。

 

今回、選んだ映画のなかで、監督たちが描いた、さまざまなお祝いのシーンに登場する人物の着こなしは、ドレスアップはもちろん、着る人の体格や顔立ち、職業、人柄、地域などをイメージして、個性を引き立てる演出が加えられた。

個性が集まるバラエティーは、お祝いの場に華やぎを添え、映画の味わいを深めた。