ビスボッチャ散歩:オリンピック記念の宿舎

WALK AROUND LA BISBOCCIA  Vol.6 “ Olympic Commemorative Lodging ”

第6回 写真・コラム/ライター織田城司  Photo & Column by George Oda

進化する東京の洋食

ビスボッチャの街をめぐる歴史散歩のコラム。今年は、オリンピックイヤー。しかも、開催地は東京ということで、渋谷区にある「オリンピック記念の宿舎」を訪ね、戦後の洋食の歴史をたどりました。

オリンピック記念の宿舎の地図

原宿にあったアメリカ

原宿駅

五輪橋

五輪橋

代々木公園

代々木公園にあるオリンピック記念の宿舎

ファッションの街、原宿。その駅前から続く代々木公園は、都内有数の大きな公園です。            

ファッション・ストリートの喧騒が嘘のように樹木が生い茂り、空が広く、多くの人々が憩いを求めて集まります。

ここにたたずむ白い一軒家は、1964年東京オリンピックでオランダの選手が利用した宿舎を残した「オリンピック記念の宿舎」です。

今見ると、運動場の用具倉庫のような簡易なつくりで、じっくり鑑賞するような建物ではないかもしれません。

しかし、建物の歴史に思いを巡らせると、白い一軒家もおもしろく見えてきます。

オリンピック記念の宿舎

この白い一軒家は、ここにあった「ワシントンハイツ」という住宅地の一軒でした。

「ワシントンハイツ」とは、戦後の日本を統治したアメリカ軍が、日本軍の練兵場跡地を接収し、日本に駐在する兵士と家族のためにつくった住宅地です。

アメリカの町がひとつできたような規模で、827戸の住宅、学校、教会、商店、劇場、スポーツ施設などがありました。

オリンピック記念の宿舎

「ワシントンハイツ」は金網の柵で囲われ、日本人は入れませんでしたが、金網越しに見ただけでも、アメリカ人の生活の豊かさがわかりました。

流線型の大きな自動車、ピカピカの家電製品、鮮やかなグリーンの芝生、カラフルなカジュアルウエア、ラジオから流れる陽気なジャズ、分厚いハムサンド、真っ白なミルク…。

近くで暮らす日本人は、焼け跡のバラックで風雨に耐え、配給や闇市のわずかな食料で飢えをしのぎ、白い一軒家は、夢の国の御殿に見えました。

オリンピック記念の宿舎

アメリカ兵は休暇日に「ワシントンハイツ」から出て、原宿や渋谷の街で遊ぶこともありました。このため、街にはアメリカ兵好みに仕立てた飲食店や物販店が並び、トレンド発信地のルーツになりました。 

飲食店で接客する戦争未亡人の中には、家族を養うために、アメリカ兵と結婚して経済力に頼ろうとする人もいました。

そんな女性のために、英語のラブレターを代筆する出店が並んだ横丁があり、いつしか「恋文横丁」と呼ばれるようになりました。その横丁は1970年代の再開発でなくなり、「SHIBUYA109」になりました。

オリンピック選手村の食堂

オリンピック記念の宿舎

「ワシントンハイツ」は1952年の講和条約発効による占領終了後も無期限使用施設として存続しました。やがて、1964年東京オリンピック開催を機に、日本に返還することで日米が合意。競技場や選手村として改修されました。

選手村は既存の建物の改修と新築で構成し、3つの食堂や共同浴場、練習場、売店などができました。そこに白い一軒家もありました。

オリンピック記念の宿舎

選手村の食事は、開催国がまかなわなければなりませんでした。選手村に集まる選手と関係者は約7000人。彼らの一日三食をまかなうために、「日本ホテル協会」や「全日本司厨士協会」を通じて全国の優秀な料理人が約300人集められ、プロジェクトチームが結成されました。

しかし当時、日本の外食産業はまだ発展途上の段階で、世界各国の料理を出すことは容易ではありませんでした。プロジェクトチームは、各国の大使館を訪ね、大使の夫人や、大使館付きのコックからレシピを教わる、地道な調査から始めました。

オリンピック記念の宿舎

いざ、オリンピック本番を迎え、選手村の食堂は大きな問題もなく操業し、大会を無事に終了することができました。しかし、外国人選手の評価は、百点満点ではありませんでした。肉の焼き加減や料理の塩加減、郷土料理の味出しなどに微妙なちがいがあったからです。 

レシピの活字だけでは表せない、本場の味を知った上での「こつ」はつかめていませんでした。海外旅行がようやく自由化された頃の日本人には、限界がありました。こうした課題を胸に「ここから変わっていくのだ」と確信した時代でした。

007が見た東京

オリンピック記念の宿舎

1964年東京オリンピックが開催されてから56年の歳月の間に、東京は、ミシュランで世界一星の多い都市になりました。

そんな東京を予言したかのようなレポートを、前回のオリンピック前に書いたイギリス人作家がいました。映画化されたスパイ小説『007シリーズ』の著者、イアン・フレミングです。

イアン・フレミングは1959年、イギリスの新聞社の依頼で、世界旅行の紀行文を連載する一環で来日しました。

その連載は『007号/世界を行く』という本にまとめられ、日本での体験は小説『007号は二度死ぬ』に生かされ、日本でロケした映画もつくられました。

オリンピック記念の宿舎

イアン・フレミングは紀行文の中で、東京について「美食家にとって真の天国である。牛肉、魚肉、うなぎ、果物、マッシュルーム、それに野菜のうまさは世界中のどこにくらべてもひけをとらない

(中略)豊かで多様性に富んだ日本料理の試食を、旅行ガイドにのっているスキヤキとテンプラだけに限るのはいささか芸がなさすぎるというものだ。」と記しています。

今でも東京の観光ガイドに使えそうな文で、イアン・フレミングにとって最初の東京旅行でありながら、観察力の鋭さに驚きます。

オリンピック記念の宿舎

イアン・フレミングが訪ねた東京のホテルや飲食店は、ほとんど改築されるか閉店しましたが、日本の豊かな食材と、日本人の繊細な感性は風土として残っています。 

それを洋食に生かす技術は、前回のオリンピックでは、まだ途上でしたが、半世紀の間に急速に進化したことがわかります。

オリンピック記念の宿舎

二度目のオリンピックが開催される東京では、人工知能(AI)などの科学技術の急成長を背景に、イタリア料理のような、人間の素朴な手仕事を感じる料理が注目されてくるでしょう。

そこに日本の豊かな食材と、日本人の繊細な感性を合わせ、洋食でも日本を感じる取り組みがオリンピックで加速し、東京の魅力が増す時代を感じます。

1964年東京オリンピックの選手村は、閉会後に取り壊され、1967年に代々木公園として開園しました。その歴史を物語る記念に、白い家が一軒残されました。

オリンピック記念の宿舎

料理人一家のオリンピック

「ラ・ビスボッチャ」の厨房で調理する井上裕基料理長

代々木公園と同じ渋谷区にある老舗イタリアン・レストラン「ラ・ビスボッチャ」。

料理長の井上裕基の祖父は、1964年東京オリンピックの選手村で、食事づくりに参加しました。

オリンピック記念の宿舎の前に立つ井上裕基料理長

井上の祖父・熊三郎は料理人で、三重県の熊野市でうなぎ屋を営んでいました。

そんなある日、全国の料理人に選手村食堂の応援要請がありました。熊三郎は「日本の料理人の力を世界に見せるチャンス」と意気込み、隣町で和食屋を営む兄の鉄舟とともに代々木へ出陣しました。

オリンピック期間中、祖父兄弟は選手村食堂の和食調理担当として腕をふるいました。

当時幼かった井上の父・登も熊三郎とともに上京しました。八王子の親戚の家で世話になりながら、白い建物が並ぶ代々木の選手村で遊んだ記憶が残っているそうです。

オリンピック記念の宿舎

戦後の復興から高度成長を遂げ、経済大国へ発展した日本。その飛躍を一気に押し進めたのは東京オリンピックでした。

戦後史に残る一大イベントとして語り継がれるたびに、一家は料理人として参加したことを思い出し、励みにしてきました。 

父・登は料理人を継ぎ、祖父のうなぎ屋を改築した「総合結婚式場みどりや」を営んでいます。

井上も料理人を継ぎ、世界一のグルメ都市・東京の勝負に挑み、イタリアン・レストランで修行を積みました。

オリンピック記念の宿舎の前に立つ井上裕基料理長

今年はオリンピックの開催で、東京は世界中から注目され、国内外からたくさんの観光客が訪れます。井上は年頭にあたり、代々木公園の白い一軒家を訪ねました。

祖父や父が、家族ぐるみでオリンピックを支えたことに思いを巡らせ「私なりに、日本の美味しい食材を使ったイタリアンで、世界のお客様をお迎えしたい」と語りました。その意気込みに料理人一家の矜恃を感じました。

2020年の東京オリンピックは、選手や観客、料理人など、多くの人々の夢を集め、新たな思い出を刻もうとしています。 

オリンピック記念の宿舎から「ラ・ビスボッチャ」に向かう井上裕基料理長

「ラ・ビスボッチャ」の厨房で調理する井上裕基料理長

散歩の後のお食事は、

ラ・ビスボッチャでお楽しみください。