ビスボッチャ散歩:北里柴三郎記念室

WALK AROUND LA BISBOCCIA  Vol.5 “ Kitasato Memorial Museum ”

第5回 写真・コラム/ライター織田城司  Photo & Column by George Oda

近代日本医学発祥の地

ビスボッチャの街をめぐる歴史散歩のコラム。今回は白金の「北里柴三郎記念室」を訪ね、北里柴三郎の人となりや、白金とのゆかりを探訪します。

北里柴三郎記念室の地図

北里柴三郎記念室の周辺

北里大学の白金キャンパスにそびえ立つ、北里研究所/北里大学プラチナタワー

北里研究所/北里大学プラチナタワーと大ひさしでつながる北里柴三郎記念館

北里大学の白金キャンパスでは、教育環境を充実させるため、リニューアル工事をすすめてきました。

2017年(平成29年)に完成した「北里研究所/北里大学プラチナタワー」は地上14階、地下2階、高さ70mの高層校舎で、北里研究所や薬学部などに使われています。

プラチナタワーのデザインは、北里柴三郎の歴史の積み重ねと、未来への飛翔を感じさせる水平ラインを基調にしています。

たくさんの水平ラインの効果で、見た目は14階よりも高く感じ、白金の新たなランドマークになっています。

プラチナタワーと大ひさしでつながる2階建の「北里柴三郎記念館」も同時にリニューアルオープンしました。

その1階で一般公開されている資料展示室が「北里柴三郎記念室」です。

道路から見た2階建の北里柴三郎記念館の表示。1階で一般公開されている資料展示室が北里柴三郎記念室

北里柴三郎記念館1階にある北里柴三郎記念室の外観

北里柴三郎記念館1階にある北里柴三郎記念室の外観

新千円札の肖像に

北里柴三郎記念館1階の廊下に展示してある北里柴三郎の胸像

2019年4月、政府と日本銀行は、2024年上期をめどに、紙幣のデザインを一新することを発表しました。新千円札の図柄には、北里柴三郎が選ばれました。

北里柴三郎は「近代日本医学の父」として、白金で研究を続け、社会に貢献しました。

「北里柴三郎記念室」では、北里柴三郎と門下生の医学的な業績が、ゆかりの品とともに紹介されています。

内部は撮影禁止なので、このページでは、北里柴三郎の人となりや白金とのゆかりに目を向けます。

阿蘇山から世界へ

阿蘇スカイライン展望所から阿蘇の根子岳を望む(写真/織田城司2015年10月撮影)

◆両親の教え 

北里柴三郎は江戸時代末期の1852年、熊本県の阿蘇山の麓にある小さな村で、庄屋を営む家に生まれました。母親の教育方針で幼少の頃から親戚の家に預けられ、勉学に励みました。

この頃に形成された、孤独に耐え、勉学に没頭する人格は、後のベルリン留学に役立ったとされています。 

北里は17歳の頃、さらなる学問の向上を目指し、九州の大都市・熊本の学校へ行くことを父親に直訴しました。

父親は北里に、熊本行きは賛成だが、運を引き寄せることの大切さを説いたそうです。成功者には必ず恩人がいる。前向きに努力すれば、必ず助けようとする人が現れる。そのような運を大切にすべきと語りました。

北里は父の教え通り、恩人との出会いを活かし、活躍のステージを広げていきました。

熊本城(写真/織田城司2015年10月撮影)

◆世界へ導いた恩師 

北里は熊本医学校でオランダ人医師マンスフェルトから学びました。当時、北里は将来医者になるか軍人になるか迷っていましたが、マンスフェルトは北里の研究者としての素質を見抜き、医学の重要性を説いて本気にさせました。

さらに、マンスフェルトは北里に、上京して東大医学部で教養を満たし、卒業後はヨーロッパに留学することをすすめました。北里はそのコースを当面の目標とし、努力の末に実現しました。

ベルリンで開花した才能

ベルリンのブランデンブルグ門(写真/織田城司)

◆ベルリン留学の好機

北里は1883年(明治16年)、30歳の頃、東大医学科を卒業し、内務省衛生局(現在の厚生労働省)に就職しました。当時、内務省衛生局では、近代国家を樹立するには、衛生思想の確立と伝染病の撲滅が課題でした。

そこで、初代局長の長与専斎(ながよせんさい)は、衛生局の技術者をドイツに留学させ、伝染病学の修得と上下水道の調査を考えていました。当初の予算は留学者1名分で、学業が優秀だった中浜東一郎(ジョン万次郎の息子)が内定していました。 

しかし、長与専斎は北里柴三郎の細菌学の論文を評価し、1名増員するために役所内を奔走し、北里がベルリンの世界最高峰の細菌学者コッホから学ぶ便宜を図りました。

ベルリンのブランデンブルグ門(写真/織田城司)

◆森鴎外の機転

北里がベルリンに留学して2年経過した1887年(明治20年)、石黒忠悳(いしぐろただのり)が訪ねて来ました。通訳として帯同していた森鴎外も同席していました。

森は当時、陸軍省に所属し、ドイツ陸軍の衛生制度調査でベルリンに留学していました。石黒は、内務省衛生局次長と陸軍省医務局次長を兼務し、北里と森の上司でした。

石黒は北里に「留学期間3年の残り1年は、ミュンヘンに移って学ぶべし」という人事異動を伝えました。それを聞いた北里はベルリンの研究が途中だと反論しました。石黒は「上官命令に背くのか」と立腹しました。

その様子を見た森は、北里の懲罰を回避するため別室に連れて行き、北里の気を鎮めながら、石黒の前で「一晩考えさせてください」と言わせるように仕向けました。 

さらに、森は北里に、翌日石黒を訪ね「ベルリンのコッホ先生の下で細菌学の研究を続けたい」と嘆願すべしと助言し、北里もそれに従いました。

数日後、北里のベルリン残留が決定しました。官命が撤回された前代未聞の出来事でした。

その背景には、コッホの発言が影響したといわれています。石黒は北里との押し問答の後、コッホに会っていました。

その時、石黒はコッホが北里の仕事を絶賛するのを聞くうちに、北里の人事異動でコッホの心証を害し、先端医学の情報が途絶えることを危惧したことが、官命撤回の要因と推測されています。

ベルリンの森鴎外記念館(写真/織田城司)

北里柴三郎や森鴎外も見たであろうベルリンの史跡、ブランデンブルグ門の近くに「森鴎外記念館」があります。

ここは、森が1887年から翌年まで滞在したアパートで、森が使用した部屋が再現されています。森が北里と石黒の人事異動をめぐる押し問答を仲裁した頃滞在していた部屋です。

部屋の写真は非公開扱いですが、8畳くらいの一間に、ベッドや机、書棚、鏡台などが置かれ、ホテルのシングルルームのような簡素な空間でした。 

机やベッドの脇に展示されたロウソクは、電灯がなかったことを表し、日本の近代化のために留学した人々の苦労が偲ばれます。

ベルリンの森鴎外記念館。入口のプレート(写真/織田城司)

白金の地で、医学の近代化に貢献

愛知県の博物館明治村に移築保存された白金の北里研究所の建物。1915年(大正4年)の建築(写真/織田城司)

◆福沢諭吉の支援

北里はベルリン留学から帰国した1892年(明治25年)、39歳の頃、国内で伝染病研究所の設立を所望していました。

しかし、国家事業として議会の承認を得るには2年以上かかることが通例になっていました。

それを見かねた福沢諭吉は「優れた学者を擁しながら、これを無為に置くは国家の恥」と語り、北里のために芝公園に借りている土地を提供し、建物を新築して私立の伝染病研究所を建てました。 

翌年の1893年(明治26年)、福沢は別荘地として購入していた白金の土地の一部を北里に寄贈し、日本初の結核療養所を建て、「土筆ヶ岡(つくしがおか)養生園」と命名しました。今の「北里大学北里研究所病院」の前身になります。

北里は福沢のすすめで1914年(大正3年)、61歳の頃、白金の土地の一部に私立の「北里研究所」を設立しました。政策の影響を受けずに研究に没頭できる場でした。翌年の1915年(大正4年)、研究所の建物が完成しました。

「北里研究所」の本館は、1945年(昭和20年)の空襲で焼け残り、戦後も活躍しました。1979年(昭和54年)に役目を終えて解体され、翌年、愛知県の博物館明治村に移築保存されました。

博物館明治村 北里研究所本館(写真/織田城司)

博物館明治村 北里研究所本館(写真/織田城司)

博物館明治村 北里研究所本館(写真/織田城司)

博物館明治村 北里研究所本館(写真/織田城司)

「北里研究所」本館は木造2階建で、デザインは、北里が学んだベルリンの研究所をもとにしたドイツ・バロック様式が採用されました。

西洋医学から学んだことを象徴するハイカラな洋館で、かつての白金のランドマークでした。

内部の構造もドイツ式を参考に、直射日光が当たる南側に廊下を設け、直射日光の変化を受けない北側に研究室が配置されました。

内装の飾りは最小限で、研究所らしく機能に徹したつくりでした。

博物館明治村 北里研究所本館(写真/織田城司)

博物館明治村 北里研究所本館(写真/織田城司)

博物館明治村 北里研究所本館(写真/織田城司)

博物館明治村 北里研究所本館(写真/織田城司)

博物館明治村 北里研究所本館(写真/織田城司)

博物館明治村 北里研究所本館(写真/織田城司)

博物館明治村 北里研究所本館。車寄せ屋根の正面に施された北里研究所の紋章。北里柴三郎が純粋培養に成功した「破傷風菌」と平和のシンボル月桂樹をレイアウトしたデザイン。この紋章デザインは現在も北里関連施設のシンボルマークとして使われている(写真/織田城司)

博物館明治村 北里研究所本館(写真/織田城司)

◆コッホ・北里神社

北里大学白金キャンパスにあるコッホ・北里神社。2006年(平成18年)に祠と覆屋の修復が行われた

現在、北里大学白金キャンパスの一角に、「コッホ・北里神社」があります。

北里は恩師コッホが1910年(明治43年)に死去すると、研究所内にコッホの遺髪を御神体とした祠(ほこら)を建てて祀りました。

北里が1931年(昭和6年)に78歳で死去すると、門下生は研究所内に北里を祀る祠を建てました。 

1945年(昭和20年)の空襲で北里の祠が焼失すると、門下生は焼失を免れたコッホの祠に北里の御霊を合祀しました。

珍しい師弟の霊を祀った「コッホ・北里神社」はこうして生まれました。

コッホ・北里神社の祠

北里が「近代日本医学の父」であれば、白金は近代日本医学発祥の地といえるでしょう。「コッホ・北里神社」はその象徴です。

北里がリアルタイムで体験した明治維新は、士農工商の身分制度が廃止され、どのような家に生まれた子どもでも、勉強すれば、役人や博士になることができる時代の到来でした。

北里は新しい時代に戸惑いながらも恩師に恵まれ、世界のステージで活躍し、日本人の実力を示しました。

白金を歩いて触れる北里の気概に、今も学ぶことがたくさんあると感じました。

コッホ・北里神社の前から北里大学北里研究所病院を望む

牛肉のススメ

北里柴三郎を支援した福沢諭吉は明治時代、学問に加え、牛肉もすすめていました。

欧米列強国と渡り合うには、日本人の体格向上の必要性を感じていたからです。 

政府も牛肉を奨励し、1872年(明治5年)には、明治天皇が牛肉を食べたことが報道され、大衆に牛肉が広まる契機になりました。

当時の牛肉料理の主流は「牛鍋」でした。いわば「すき焼き」で、慣れない牛肉の風味を軽減するために、味噌や醤油で煮込んだものでした。 

明治時代の医学はともかく、衣食住の西洋化は表面を模倣しただけで和洋折衷感が残り、擬西洋といわれていました。

戦後から広まったステーキや焼肉も、ソースやタレなど、刺激が強い調味料に依存した食べ方でした。

イタリア料理のように、素朴な炭火焼きで、牛肉そのものの味を楽しむ文化の到来は、ビスボッチャが開業した1993年頃の「イタ飯ブーム」まで待たなければなりませんでした。

明治天皇や福沢諭吉が牛肉に挑んでから、100年以上の歳月が経っていました。

イタリア式の炭火焼きは、ソースやタレに依存しない分、牛肉の厳選や焼き加減が勝負になります。 

焼き上がった牛肉は、香ばしい風味や旨み、コクなどを豊かに感じ、野生の本能を呼び覚ますようで、食べ慣れると、たびたび食べたくなる味わいです。

ラ・ビスボッチャの牛ロースの炭火焼き

散歩の後のお食事は、 

「ラ・ビスボッチャ」でお楽しみください。