ビスボッチャ散歩:たぬき橋

WALK AROUND LA BISBOCCIA  Vol.2 ” TANUKIBASHI “

第2回 写真・コラム/ライター織田城司  Photo & Column by George Oda

たぬきがいた場所

ビスボッチャの街をめぐる歴史散歩のコラム。今回は、ビスボッチャのお隣、慶應義塾幼稚舎にゆかりのある「狸橋」をたずねました。

狸橋の地図

水車が貴重な動力だった

狸橋北詰。正面の白い建物は慶応義塾幼稚舎の一部。かつてこの周辺に水車があった

江戸時代は電力がなく、水車が貴重な動力でした。

農民は川沿いに水車を建て、精米などに使いました。

「狸橋」の南側にも水車がありました。近くの蕎麦屋が所有していたもので、おそらく蕎麦粉をひいていたのでしょう。

ある晩、この蕎麦屋に子ども連れの女性が現れ、蕎麦を買いました。翌朝、そのお金は木の葉に変わっていた、という伝説が広まりました。

当時、このあたりは「広尾野」と呼ばれる草原が広がり、夜は狸が出そうな雰囲気で、狸にだまされる伝説にリアリティーがありました。

やがて、この蕎麦屋は「狸蕎麦」と呼ばれ、屋号も「狸蕎麦」になり、近くの橋も「狸橋」と呼ばれるようになりました。

狸橋南詰。今の橋は1978年(昭和53年)に建て替えられたもの。シックなカラーリングの中に、擬宝珠とバルコニーを配したモダン・クラシックなデザインに、由緒ある橋らしい威厳を感じる

明治維新を迎えると、東京の街中では、武家屋敷が取り壊され、大使館や大学が建ち、近代化が進みました。

福沢諭吉は、緑が失われつつある都心の中で、日本の原風景を感じる広尾野の風情が気に入りました。

三田の自宅から「広尾野」まで散歩すると、「狸蕎麦」によく立ち寄っていました。知人を散歩に誘い、「狸蕎麦」で会食を楽しむこともありました。

狸橋の上から三田方面を望む。遠方で古川と首都高速2号目黒線が交差する

やがて、福澤諭吉の「広尾野」好きは極まり、1879年(明治12年)に「狸蕎麦」の主人が持っていた土地と建物を購入しました。水車の営業権も登録して精米に励みました。

当時、福澤諭吉は40歳半ばで、大学の経営が軌道に乗り、余裕があったのでしょう。購入した土地にすぐ別邸を建て、「狸橋」周辺は、福澤諭吉の別荘地として知られるようになりました。

その後、福澤諭吉は北里柴三郎の医学研究を支援するため、別荘地の一部を寄贈しました。その土地に北里研究所や付属病院、大学ができました。

「慶応義塾幼稚舎」は1937年(昭和12年)、老朽化した三田の校舎から広尾の別荘地の一部に移転して今に至ります。

北里病院や幼稚舎のまわりを歩くと、福澤諭吉が購入した土地、つまり「狸蕎麦」の主人が持っていた土地の広さに驚きました。

狸橋の上から天現寺橋方面を望む。左が慶應義塾幼稚舎

狸橋南詰から明治通りを望む。正面は在日米軍専用のニュー山王ホテル

狸橋北詰付近から明治通りを三田方面に見渡す

都電車庫の跡地

天現寺歩道橋の上から外苑西通りを青山方面に見渡す。左は都営広尾5丁目アパート

「慶應義塾幼稚舎」は1874年(明治7年)、福沢諭吉の弟子の和田義郎が自宅を使って児童教育をはじめたのが起源とされています。

和田義郎は福澤諭吉の影響を受け、福沢諭吉が購入した「広尾野」の対角にあった草原の一部を購入し、プールをつくって幼稚舎生を泳がせていたそうです。

その周辺は今、「都営広尾5丁目アパート」と「渋谷区立広尾公園」になっています。

都営広尾5丁目アパートに隣接する渋谷区広尾公園

都営アパートができる前は、ここに都電の営業所と車庫がありました。全国で鉄道の建設ラッシュに沸く1918年(大正7年)にできました。

ところが、戦後になると自動車が増え、都電は渋滞の原因とされたことから次々と撤去され、広尾の営業所と車庫も、アメリカの宇宙船アポロが月面着陸した1969年(昭和44年)に廃止されました。

翌年、今の「都営広尾5丁目アパート」と「広尾公園」ができました。広大な敷地に、都電がたくさん並んでいた面影を感じます。

都電7500型 1962年製 渋谷駅を起終点に新橋や神田まで走っていた車両 江戸東京たてもの園にて撮影

都電7500型 1962年製 渋谷駅を起終点に新橋や神田まで走っていた車両 江戸東京たてもの園にて撮影

都電7500型 1962年製 渋谷駅を起終点に新橋や神田まで走っていた車両 江戸東京たてもの園にて撮影

都電7500型 1962年製 渋谷駅を起終点に新橋や神田まで走っていた車両 江戸東京たてもの園にて撮影

都電7500型 1962年製 渋谷駅を起終点に新橋や神田まで走っていた車両 江戸東京たてもの園にて撮影

都電7500型 1962年製 渋谷駅を起終点に新橋や神田まで走っていた車両 江戸東京たてもの園にて撮影

都営広尾5丁目アパート南側のサイン。1970年の建築で、同年開催された大阪万国博覧会のテーマ『人類の進歩と調和』を感じるモダンなロゴタイプ。当時の流行、コンピューター時代の到来を予兆するデジタル風文字をタイルで表現している

渋谷区広尾公園

医学の進歩に

狸橋を西側から見る。遠方の高層ビルは北里大学。右の樹木は慶應義塾幼稚舎

明治時代の初期、伝染病の流行で毎年数万人が死亡する事態が発生し、大きな社会問題になっていました。特にコレラは、発症すると3日で命を奪う危険な伝染病で、1879年(明治12年)だけでも10万人が亡くなる猛威で、伝染病対策が急務とされていました。

そこで、福沢諭吉は1893年(明治26年)、ドイツに留学して研究成果をあげていた北里柴三郎を支援し、別荘地の一部を寄贈しながら、日本最初の私立伝染病研究所「土筆ヶ岡(つくしがおか)養生園」を創設しました。

土筆は「広尾野」にたくさん生えていたことから、病院の名に使われたものと推測します。

研究の場を得た北里柴三郎は、日本の細菌学や予防医学の進歩に大きく貢献しました。

今の北里病院の広報誌のタイトルは『つくしんぼ』で、開業当時の「広尾野」の面影を今に伝えています。

狸橋の近くにある北里大学北里研究所病院のフェンス。古い土手道の名残がある細い道で車は一方通行

回生橋から東京都立広尾病院を望む

幼稚舎の向かいにある「東京都立広尾病院」は、1889年(明治22年)に開院された「東京市避病院」が前身になります。

「避病院(ひびょういん)」とは、コレラなどの伝染病専門の隔離病舎のことです。東京市が「広尾野」の一部を切り崩して建てました。今は総合病院になっています。

「広尾野」の風情は、大きな病院が次々と建設されると、失われていきました。しかし、福澤諭吉が私財を投入した伝染病対策は、多くの人々の命を救うことに貢献しました。

狸橋の近くにある北里病院北里研究所病院の出入口

幻のたぬき

天現寺歩道橋から外苑西通りを目黒方面に見渡す。樹木が続く敷地が慶應義塾幼稚舎。右奥のビル群がビスボッチャのある一角

明治時代の地図を見ると、幼稚舎の敷地は今とほとんど変わらないことから、その隣のビスボッチャが入居する広尾MTRビルの敷地は、福澤諭吉が購入した土地に含まれなかったものと思います。

広尾MTRビルの周辺は、江戸時代までは広尾野の一部で、何も建っていませんでした。明治以降に民家が建ちはじめ、昭和の末期から平成にかけてビル化が進み、今に至ります。

歩道から見た慶應義塾幼稚舎の建物

外苑西通りに面した歩道。左の赤レンガのフェンスは慶應義塾幼稚舎のもの。その右の植え込みからビスボッチャが入居する広尾MTRビルの敷地

かつて、福澤諭吉が緑に惹かれて購入した「狸橋」の周辺は、都市化が進み、狸が出そうな雰囲気は残っていません。

そのおかげで、ビスボッチャのレジに収めた福澤諭吉の一万円札が、翌朝木の葉に変わることはなくなりました。

2024年から発行される北里柴三郎の千円札も、「つくしんぼ」に変わることはないでしょう。

狸橋北詰

街の歴史について知ると、散歩がおもしろくなります。

散歩の後のお食事は、ビスボッチャでお楽しみください。

ラ・ビスボッチャ外観