WALK AROUND LA BISBOCCIA Vol.1”SHINOHASHI “
第1回 写真・コラム/ライター織田城司 Photo & Column by George Oda
浮世絵に描かれた江戸名所
ビスボッチャの街をめぐる歴史散歩のコラム。今回は、浮世絵に江戸名所として描かれた、港区の「四之橋(しのはし)」をたずねました。
四之橋の地図
「四之橋」の場所は、「四ノ橋バス停」から東にある「四の橋交差点」の南側です。「首都高速2号目黒線」の真下にあるため、平面図では表示されません。
ビスボッチャの場所は、「四ノ橋バス停」から南西の方角です。
現在の四之橋
かつて浮世絵に描かれた「四之橋」をたずねると、高速道路の下にありました。
江戸時代の風情は、残っていません。
今は住民の生活道路としての役割が中心で、観光客が写真を撮る姿は、ほとんどありませんでした。
浮世絵に描かれた四之橋
「四之橋」が江戸時代に名所として浮世絵に描かれたのは、橋のまわりに美しい草原が広がっていたからです。
古川から白金台や恵比寿の台地に広がる斜面に民家はほとんどなく、草花が生い茂り、絶景とされていました。
草原を散策すれば、春は摘み草、夏は蛍狩り、秋は虫の声を楽しむことができました。
江戸の中心部から観光客が多く訪れ、橋の南には茶店や料亭が広がりました。
広大な草原は「広尾野」や「広尾の原」と呼ばれ、広尾の地名の語源になりました。
観光ガイドとしての浮世絵
もともと、江戸庶民は、自分が住む町から出ない暮らしをしていました。生活に必要な施設や物資は、すべて町内にあったからです。
しかし、江戸後期になると町内にないものが出てきました。「旅情」です。それに火をつけたのは浮世絵でした。
浮世絵の発達で観光地の魅力がビジュアルで伝わるようになりました。
浮世絵一枚の値段はそば一杯分くらいで、庶民に手が届く値段だったことから瞬く間に広がり、観光地に出かけることが憧れとなりました。
観光ガイドの役割を果たす歌川広重の『名所江戸百景』や『東海道五十三次』などのシリーズは好奇心旺盛な江戸庶民に好評で、ベストセラーになりました。その中に描かれた「四之橋」もトレンドスポットになりました。
江戸時代にピクニックの名所だった広尾
草原は、江戸庶民にとっては貴重な存在でした。
というのも、江戸は当時から世界有数の人口過密都市で、中心部は武家屋敷や社寺、民家などの建物がぎっしりと並んでいました。だから緑に憧れたのです。
江戸時代の夜道は、電気がないから真っ暗でした。このため、旅行は夜明けとともに出かけ、夕暮れまでに帰宅する日帰りが主流でした。
「四乃橋」は、江戸の中心部から近く、日帰り旅行にちょうどいい距離でした。
ちなみに、日本橋から「四之橋」までの距離は約7㎞、徒歩だと約90分です。古川を使って船で「四乃橋」まで行くルートもあり、好アクセスの観光地として栄えました。
あり得ない視点
ところで、広重は「四乃橋」を高い場所から描いています。でも、当時、橋の近くに高い建物はありませんでした。
広重は名所を描くとき、現地調査をするものの、まるでドローンでも使ったかのようなアングルを空想して、変幻自在に構図を組むことができました。
浮世絵が海外で評判になった背景には、色彩や描写力はもちろん、ありえない視点に挑む想像力も注目されました。
ゴッホも広重の技術に驚き、ファンになり、『名所江戸百景』の新大橋や亀戸を油絵で模写しながら技術を学びました。
江戸幕府の薬草園があった
江戸初期の1630年(寛永7年)、「四乃橋」北側の坂の西側に幕府の薬草園が設けられ、坂は「薬園坂」と呼ばれるようになりました。
「薬園坂」の上まで歩くと、眺めがよく、日当たりと風通しもよく、植物の生育に適していたことを感じました。
そこに目をつけた徳川綱吉は17世紀の末、別邸を建てることにしました。このため、薬草園は小石川に移転し、今も続く「小石川植物園」の前身になりました。
薬草園が麻布あったのは、わずか数十年ながら、移転して300年以上経つ今も「薬園坂」の名が使われていることに面白さを感じます。
首都高速という空中作戦
1959年(昭和34年)、オリンピックの開催地が東京に決まると、東京は忙しくなりました。
戦後から復興したことを世界に示したい。
ところが、当時の東京の道路は至るところで大渋滞。羽田空港から都心まで、2時間以上かかっていました。
「これでは、来日する選手や観客をもてなすことはできない」と誰もが考えていました。
都心に高速道路を建てる猶予はわずか5年。最大の問題は、用地買収の手間をどう省くかでした。
そこで、考え出されたのが、既存の道路や川の上に高架の道路をつくる「空中作戦」でした。
海外でも例のない難工事を、日本の技術者たちは驚異的なスピードで成し遂げました。
首都高速の都心環状線は、1962年(昭和37年)から順次開通しました。
オリンピック開幕直前の1964年(昭和39年)8月、「首都高速1号羽田線」が開通。来日する選手や観客のもてなしに間に合いました。
視察に訪れたアメリカの道路技術者は、「大都市の上を走る複雑な曲線道路。われわれでは、とてもつくれない。グレイトだ」と語りました。
やがて、1967年(昭和42年)に「首都高速2号目黒線」が開通。「四乃橋」の上を高速道路が覆いました。
旧ソ連の世界的な映画監督アンドレイ・タルコフスキーは、1972年(昭和47年)に公開したSF映画の名作『惑星ソラリス』のなかで、未来都市を映す場面のロケ地に、東京の首都高速を使いました。
消えた川と橋
地下鉄日比谷線広尾駅の恵比寿側出口の前に、「広尾橋交差点」があります。
橋がないのに、地名に橋がついているのは、ここにかつて川が流れていた頃の名残りです。
ここを流れていた川は、「笄(こうがい)川」といい、青山墓地周辺を水源とし、天現寺橋の下で「渋谷川」と合流していました。
「笄川」は、関東大震災の復興事業の一環で、大正末期から昭和初期にかけて暗渠(あんきょ:河川を地中に埋設すること)化され、その上は道路や建物になりました。
「笄川」は今も地中を流れ、地下鉄広尾駅のあたりから外苑西通りの下を通り、「天現寺橋」の下に到達します。
「笄川」は「天現寺橋」の下で、わずか数メートル顔を出し、地上から見えたかたと思うと、すぐに「渋谷川」と合流してなくなります。
東京ガラパゴス
「天現寺橋」の南詰に「清流の復活」という石碑が建っています。これは、「渋谷川」と「古川」の清流が復活したことを記念するものです。
「渋谷川」は昭和のはじめ頃までは田畑の農業用水として、「古川」は船便の水路として使われていました。
ところが、都市化と高度成長にともない、水質の悪化や水量の減少が見られるようになりました。
そこで、東京都は1995年(平成7年)に清流復活事業を行い、それを記念して建てたのがこの石碑です。
「渋谷川」と「古川」に流れている清流は、新宿区上落合にある「落合水再生センター」で高度処理した再生水を使い、水辺には多様な生物が生息できるようになったそうです。
「どんな生物がいるの?」と思って「天現寺橋」の上から川を見ると、水辺に巨大な亀がたくさんいることに驚きました。
護岸のコンクリートが亀が上陸しやすい角度なのか、集会所のようになっていました。
それから、「天現寺橋」を通るたびに「きょうは亀いるのかな?」と思って橋の下をのぞくようになりました。
地元のOLたちも、昼休みに弁当を買いに出てついでに、橋の下をチラッと見ていました。
「四乃橋」に浮世絵の風情は残っていませんが、時間旅行の楽しみがあります。
そこから見えてくるのは、広重が「四之橋」を描いてから、わずか150年の間に、東京が激変したことです。
震災や空襲、高度成長などを通して、なくなった川や橋はたくさんあります。
「四之橋」のように、浮世絵に描かれた川や橋が、姿形を変えながらも残り、実物のまわりを歩きながら、歴史を想像できる場所は、貴重な存在といえるでしょう。
草原のピクニックが楽しみたければ、日帰りで箱根や尾瀬に行ける時代になりました。
街の歴史について知ると、散歩がおもしろくなります。
散歩の後のお食事は、ビスボッチャでお楽しみください。