ビスボッチャ散歩:豊沢貝塚

WALK AROUND LA BISBOCCIA  Vol.3 “ TOYOSAWA SHELL MOUNDS ”

第3回 写真・コラム/ライター織田城司  Photo & Column by George Oda

恵比寿2丁目にいた縄文人

ビスボッチャの街をめぐる歴史散歩のコラム。今回は「豊沢貝塚」をたずね、縄文時代の食生活に思いをめぐらせました。

豊沢貝塚の地図

坂の上の貝塚

外苑西通りから豊沢貝塚にのぼる坂道。軽ワゴンが走るあたりが豊沢貝塚

豊沢貝塚の周辺

地図を見ていると、ビスボッチャの近くに「豊沢貝塚」という遺跡を発見しました。

貝塚は、縄文人が暮らした証で、古くから気候風土がよい土地だったことがわかります。そのことを実感するために現地たずね、当時をしのぶ展示を見ようと思いました。

地図を頼りに外苑西通りから坂をのぼると、「渋谷同胞幼稚園」がありました。入口近くに「豊沢貝塚」の板碑がありましたが、展示は見あたりませんでした。

渋谷同胞幼稚園

渋谷同胞幼稚園の門。幼稚園はアメリカ人宣教師が1912年(明治45年/大正元年)に開園した

渋谷同胞幼稚園の門の右脇に立つ豊沢貝塚の板碑

豊沢貝塚の板碑。豊沢貝塚は縄文晩期(今から約3千年前)の遺跡にあたる

そこで、幼稚園から出てきた職員に、貝塚の展示場所をたずねると、「この碑は十数年前、幼稚園を改築する時に、地中から遺跡が発掘されたことを示すだけで、展示があるわけではありません」と教えてくれました。

地図に「文豪〇〇の旧居跡」と書いてあっても、現地には板碑があるだけで、ビルが建っていることはよくあります。「豊沢貝塚」も板碑だけの遺跡でした。

でも、見方を変えれば、「豊沢貝塚」がある台地そのものが、縄文人の名残りを感じる遺跡と考えられます。

その台地に至る、恵比寿2丁目の坂道を歩いて縄文人の追体験を楽しみました。

豊沢貝塚がある台地を恵比寿3丁目交差点から望む

恵比寿2丁目の坂道

恵比寿2丁目の坂道

豊沢という旧町名

豊沢貝塚の周辺を歩いていると、豊沢と名がつく施設をよく見かけます。それは、現在の恵比寿2丁目の旧町名が豊沢町だったからです。

「豊沢貝塚」や「慶應義塾幼稚舎」、ビスボッチャがある地域は、かつて豊沢町と呼ばれていました。

渋谷同胞幼稚園に隣接する豊沢協会。アメリカ人宣教師が1907年(明治40年)に設立した

豊沢町は1928年(昭和3年)に成立しました。

当時の住所表示は、町名の次に番号を付けたものでした。都市化が進むと、番号が5桁におよぶ場合もありました。

ところが、この番号は、家の並び順ではありませんでした。たとえば、目の前に36番を表示する家があっても、隣の家は1470番ということもありました。

このため、自分が行きたい住所、449番にどのように行ったらよいかわからず、町中を歩き回らなければなりませんでした。郵便物の配達や宅配便にも不便な住所表示でした。

豊沢児童遊園地

そこで、住所情報から目的地を見つけやすくするため、1962年(昭和37年)に「住居表示に関する法律」が交付・実施され、街区方式を用いた現在の住所表示に変更されました。

渋谷区はこの改正に伴い、町名を整理集約しました。やがて、1966年(昭和41年)に恵比寿の名のもとに、豊沢町や山下町、新橋町、伊達町、景丘町などの5つの町が集約され、区画によって1番から4番まで付番されました。この時、豊沢町があった地域の町名は恵比寿2丁目に変わりました。

この法律は住所に関するもので、団体名や施設名はその限りではありませんでした。このため、長く親しんだ豊沢の名を使い続ける団体や施設が今も残っているのです。

渋谷川にかかる新豊沢橋を南詰から望む

年季が入った新豊沢橋の親柱。1934年(昭和9年)の建築

新豊沢橋の上から渋谷川上流を望む

象がいた渋谷

ビスボッチャの場所は、かつて海の底でした。今から15万年前ごろ、気温が上がり、氷河がとけ、海面が上昇していました。ビスボッチャの場所はもちろん、関東平野もほとんど海の底でした。

今から10〜3万年前ごろ、海面が下がり、陸地が見えるようになりました。その頃、まだ日本列島は大陸と地続きで、ナウマン象が食糧も求めて移住しました。

1971年(昭和46年)、地下鉄千代田線の工事中に、原宿駅前の神宮橋地下約21mからほぼ一頭分のナウマン象の化石が発見され、渋谷区にもナウマン象がいたことがわかりました。

ナウマンゾウの等身大模型(千葉県 国立歴史民族博物館 写真・織田城司)

やがて、日本列島が大陸と分離していくうちに、ビスボッチャの周辺は渋谷川の浸食により、高台と谷ができました。

渋谷区で人が暮らしはじめたの、およそ3万年前の旧石器時代からです。

その後、縄文人が暮らしはじめたのは、今から約1万3千年前からです。

その中でも、「豊沢貝塚」は縄文晩期の出土品が発見されたことから、今から約3千年前の人々が暮らしが確認されました。

縄文人の暮らし

縄文人の集落の復元展示(青森県 三内丸山遺跡 写真・織田城司)

縄文人の集落にあった大型掘立柱建物の推定復元展示(青森県 三内丸山遺跡 写真・織田城司)

縄文人の集落の復元展示(青森県 三内丸山遺跡 写真・織田城司)

縄文人が住みたかった恵比寿2丁目

「豊沢貝塚」の周辺で暮らした縄文人は、なぜこの地を選んだのでしょうか。

◆森林などの緑が多い

食料の多くを狩猟や採集で得ていた縄文人にとって、動物や木の実の確保ができる森林は不可欠でした。「豊沢貝塚」周辺の広尾は、森林や緑地が広がり、好立地でした。

道具をつくる縄文人の復元模型(千葉県 国立歴史民族博物館 写真・織田城司)

防寒衣料用の皮を加工する縄文人の復元模型(千葉県 国立歴史民族博物館 写真・織田城司)

防寒衣料用の皮を縫製する縄文人の復元模型(千葉県 国立歴史民族博物館 写真・織田城司)

◆日当たり良好

日当たりがよい場所は、土器を乾燥させたり、肉や魚を干した保存食をつくることに適していました。「豊沢貝塚」がある台地は、近くに高い山もなく、日当たりや風通しが良好でした。

縄文晩期(今から約3千年前)の壺型土器。重要文化財(青森県 是川遺跡 写真・織田城司)

縄文晩期(今から約3千年前)の深鉢型土器。重要文化財(青森県 是川遺跡 写真・織田城司)

縄文後期(今から約4千年前)の腕組み土偶。重要文化財(青森県 是川遺跡 写真・織田城司)

縄文後期(今から約4千年前)の合掌土偶。国宝(青森県 是川遺跡 写真・織田城司)

◆水辺の近く

川の近くは、生活用水の確保や、船で海へ出て、魚をとることに便利でした。とはいえ、水害に被災することもあったので、水辺でも台地の上が理想でした。

「豊沢貝塚」は渋谷川や芝浦の浜に近く、台地の上にあり、縄文人の住まいにとって理想的な条件がそろっていました。

収穫した魚を家に持ち帰る縄文人の復元模型(東京都 国立科学博物館 写真・織田城司)

土器をつくる縄文人の復元模型(東京都 国立科学博物館 写真・織田城司)

縄文人の食材

縄文人の食生活は、稲作が定着する前で、食材は狩猟による肉や魚、採集による木の実が中心でした。

いわば肉食で、西洋人と共通する、人間の根源的な食生活でした。

◆肉

【動物】

イノシシ、シカ、タヌキ、ウサギ、アナグマ、カワウソ

【鳥類】

キジ、ヤマドリ、カモ、ハト、ウズラ

シカをさばく縄文人の復元模型(千葉県 国立歴史民族博物館 写真・織田城司)

◆海産物

【海水魚】

タイ、マグロ、カツオ、サケ、マス、スズキ、イワシ

【淡水魚】

フナ、コイ、ウナギ

【貝類】

サザエ、アワビ、ハマグリ、アサリ、ハイガイ

【磯の生物】

ウニ、ナマコ

【海藻】

ワカメ、ホンダワラ

縄文人の食材の復元模型(千葉県 国立歴史民族博物館 写真・織田城司)

◆木の実や山菜

クリ、ドングリ、クルミ、トチ、ヤマブドウ、ワラビ、ノビル、コゴミ、ヤマイモ

縄文前期(今から約5500年前)のポシェット。木の実の採集などに使ったもので、中からクルミの殻が一緒に出土している。鞄の本体はテープ状にスライスした樹皮を編んだもの。重要文化財(青森県 三内丸山遺跡 写真・織田城司)

縄文人の調理法

縄文時代の調理法は、旧石器時代の焚火に加え、土器が開発されたことで、煮物や貯蔵などの技術が発達しました。

◆炭火焼き

焚き火に食材を吊るしたり、食材の串刺しを立てかけて加熱した。

住居の土間に埋めた土器の炉の復元展示。炭火焼きの実演(千葉県 加曽利貝塚 写真・織田城司)

◆石焼き

焼いた平らな石の上で肉を加熱した。

◆煮る

水と食材を入れた土器を焚火で加熱した。

住居の中で土器を使って食材を煮る縄文人の復元模型。天井から吊るす魚の保存食も見られる(青森県 三内丸山遺跡 写真・織田城司)

集落で食材を煮る縄文人のミニチュア復元模型(千葉県 国立歴史民族博物館 写真・織田城司)

◆蒸す

焼いた石の上に葉で包んだ食材を置き、水をかけ、蒸気で加熱した。

蒸し焼きをつくる縄文人の復元模型(千葉県 国立歴史民族博物館 写真・織田城司)

◆練り物

肉や魚を石皿の上でつぶし、砕いた木の実などと練り合わせ、焼いたり、煮たりした。

料理の下ごしらえをする縄文人のミニチュア復元模型(千葉県 国立歴史民族博物館 写真・織田城司)

◆燻製

煙出しのついた穴の中に食材を吊るし、焚き火の煙でいぶした。

地中で燻製をつくる縄文人のミニチュア復元模型(千葉県 国立歴史民族博物館 写真・織田城司)

ビスボッチャの厨房でカジキマグロの燻製をつくる料理長・井上裕基

縄文人が恵比寿2丁目で暮らしてから3千年の歳月の間に、文明は進化し、人々の暮らしや、街の景色は変わりました。

しかし、料理の基本は、ほとんど変わっていないと思います。自然の食材を美味しくする調理法はシンプルで、変わり様がないのでしょう。

特にイタリア料理は、古代から続く素朴な調理法を好み、縄文人の料理と共通する要素が多く見られます。

ビスボッチャの近くで縄文人が暮らし、店のあたりを歩いていたことを思うと、料理の味もより深まる思いがしました。

ビスボッチャの炭火焼きグリルで焼くイノシシのロース

散歩の後のお食事は、

ラ・ビスボッチャでお楽しみください。