ビスボッチャ散歩:忠臣蔵で歩く高輪

WALK AROUND LA BISBOCCIA  Vol.14 “ Takanawa ”

第14回 写真・コラム/ライター織田城司  Photo & Column by George Oda

武士の魂が眠る地

ビスボッチャの街をめぐる歴史散歩のコラム。今回は港区の高輪で、忠臣蔵ゆかりの地を訪ねます。

泉岳寺の地図

都営地下鉄浅草線 泉岳寺駅 泉岳寺・高輪方面改札口 赤穂義士の名を連ねた木版の装飾

山は秋の気配が早く、街は歳末の気配が早い。

11月になると、街は歳末の装いにかわる。

その風物のひとつに「忠臣蔵」がある。

これは1702(元禄15)年に、実際にあった赤穂事件をもとにした、芝居や映画の創作作品である。

赤穂義士が吉良邸に討ち入りし、主君の仇討ちを果たした旧暦の1214日が、歳末風物の由来とされる。

高輪の街は、「泉岳寺」と「細川家屋敷」という、「忠臣蔵」を語るうえで欠かせない事件の現場がある。

実在した 赤穂義士の足跡を色濃く感じる、散歩コースである。

泉岳寺

泉岳寺 中門 1836(天保7)年に再建されたもの

泉岳寺と浅野内匠頭のゆかり

 泉岳寺は、赤穂事件の中心人物、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)と四十七士の墓がある。

泉岳寺の起源は1612(慶長17)年、徳川家康が外桜田に創建したことにはじまる。

この寺が1641(寛永18)年に火災で焼失すると、3代将軍徳川家光は諸大名に命じ、現在の高輪の地に泉岳寺を移転再建した。

このときの大名に赤穂藩の浅野家も参加した因果で、泉岳寺は浅野家の江戸の菩提寺となった。

泉岳寺 山門 1832(天保3)年に再建されたもの

赤穂藩は、江戸時代に現在の兵庫県赤穂市近辺を領した藩である。江戸の上屋敷は鉄砲洲(現在の聖路加国際病院)にあった。

浅野内匠頭は江戸屋敷で生まれた。藩主になると江戸と赤穂を行き来し、藩政を取り仕切り、幕府の仕事にも従事した。

この仕事を、赤穂藩の筆頭家老だった大石内蔵助(おおいしくらのすけ)が、赤穂城で補佐した。

泉岳寺 本堂 旧本堂は第二次世界大戦で消失。現在の本堂は1953(昭和28)年に再建されたもの

やがて、浅野内匠頭は幕府から勅使の「ごちそう人」のひとりに任命された。いわば、皇室の使者が幕府を訪問するときの接待係である。

この行事の礼儀作法の指南役が吉良上野介だった。浅野内匠頭と吉良上野介は、接待を運営するうちに、仕事に対する見解の相違から遺恨が積もっていく。これが江戸城内の刃傷事件の背景のひとつと推定されている。

ついに、浅野内匠頭は1701(元禄14)年3月14日、江戸城で勅使を迎える行事がはじまる直前の11時半頃、江戸城内の松の廊下で、脇差しを使い、吉良上野介の額や背中を切りつけた。

この場面は、芝居や映画では、さまざまな想像をもとに脚色されているけれど、実在の資料はほとんどなく、動機や口論などの真相は謎のままである。 

浅野内匠頭は、行事の場にいた大勢の武士に取り押さえられ、吉良上野介は一命をとりとめた。 

泉岳寺 境内

浅野内匠頭は、刃傷事件の裁定を待つため、江戸城から退去させられ、新橋の一関藩(現在の岩手県一関市周辺を領した藩)田村家の屋敷に預けられた。

事件の報告を受けた将軍・徳川綱吉は、行事が台無しになったことに激怒し、浅野内匠頭の即日切腹と、赤穂浅野家のお家断絶という、厳しい裁定を即決した。

浅野内匠頭は裁定を受け、同日夜に田村家屋敷の庭で切腹。享年35歳。遺体は浅野家の家臣に引き取られ、菩提寺の泉岳寺に埋葬された。

泉岳寺 浅野内匠頭の墓 2020年に一部修復

泉岳寺と大石内蔵助のゆかり

赤穂藩・浅野家筆頭家老・大石内蔵助は、赤穂城で事件の報告を受けた。お家断絶の裁定により、赤穂城を引き渡すと、家臣とともに浪人となった。

大石内蔵助はしばらく寺で残務処理をした後、縁者を頼り、京都の山科に移り住んだ。同年秋に上京し、在京の義士と仇討ちの密談を繰り返した。泉岳寺で浅野内匠頭の墓を参詣し、年末に京都に帰った。

ここで、芝居や映画に登場する大石内蔵助は、主君の墓に語りかけ、復讐を誓う。討ち入りに向けた展開を盛り上げるために、よく使われる場面だ。

泉岳寺 本堂

翌年1702(元禄15)年の夏、大石内蔵助はお家再興が絶望になると、幕府への遠慮が無用になった。これを契機に仇討ち決行に向けて動き出し、秋に再び上京した。

ついに、大石内蔵助は12月14日、義士と吉良邸に討ち入り、吉良上野介の首をとって仇討ちを果たした。

それから、大石内蔵助と義士は、吉良邸のあった両国から高輪まで歩き、泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首を供え、仇討ちを報告した。

泉岳寺 首洗い井戸 赤穂義士が本懐成就後、吉良上野介の首をこの井戸水で洗い、浅野内匠頭の墓前に供え、報告したことから「首洗い井戸」とよばれている

大石内蔵助は、使者を幕府の大目付に派遣し、事件のあらましと自首の意思を伝えた。泉岳寺で幕府の使者を待つ間、義士としばらく休憩した。

このとき、泉岳寺から義士に粥や茶などが提供された。吉良上野介の首は泉岳寺の僧侶2名によって吉良邸に返却された。

泉岳寺 境内

幕府の使者が来ると、義士は4大名の屋敷に分かれて預かりの身となった。

それから約40日後、翌年の1703(元禄16)年2月4日、義士に切腹の裁定が下る。大石内蔵助ほか義士は、それそれが預かられていた4大名の屋敷で切腹した。大石内蔵助、享年45歳。

義士の遺体は遺志により泉岳寺に集められ、浅野内匠頭の墓の隣に埋葬された。

赤穂義士墓地 入口の門 この門は赤穂藩浅野家の鉄砲洲(現在の聖路加国際病院)にあった上屋敷の裏門を明治時代に移築したもの

赤穂義士墓地の受付では拝観料のかわりに線香を購入して供える

線香は受付で着火して竹の器に入れてくれる。一束に約100本の線香が入り、四十七士に各2本お供えするのが目安と説明される

泉岳寺 大石内蔵助の墓

泉岳寺 義士の墓は主君の墓と隣接する。左が大石内蔵助と義士の墓地。右の白い石の柵が浅野内匠頭の墓

泉岳寺 義士の墓

泉岳寺 義士の墓

細川家屋敷の跡

高輪街頭の地図案内板を撮影した写真に、点線と番号を加筆する。赤い点線は細川家屋敷跡。青い点線は現在の高輪皇族邸。黒丸はこの章の写真の番号

細川家屋敷と大石内蔵助のゆかり

討ち入り後、大石内蔵助ほか16名の義士は、幕府の指示で熊本藩細川家の屋敷に預けられた。

この屋敷の跡地は泉岳寺の徒歩圏内で、赤穂義士の史跡もあり、あわせて訪ねたい場所だ。

(写真1)二本榎通り 細川家屋敷の跡を見る。左の都営高輪一丁目アパートから右の赤いビルの手前に見えるベージュの低層マンション、クラッシィハウス高輪あたりまでが跡地の目安。屋敷の広さを感じるアングル

細川家の高輪屋敷は、家の資料には当初、下屋敷と記されていたが、江戸後期には中屋敷に変わる。このため史跡の表記には、下屋敷と中屋敷、両方が見られる。

ちなみに、熊本藩の上屋敷は、現在の丸の内オアゾにあたる。こちらは巨大なビルで、江戸時代の面影は残っていない。

その一方で、高輪の屋敷跡は、江戸時代の地形や道が残り、まわりを歩くと、屋敷の広さが実感できる。 

(写真2)二本榎通り (写真1)の反対側から細川家屋敷の跡を見る。手前の茂みが高輪皇族邸の正門。左隣がマンション、クラッシィハウス高輪。その左の高いビルが都営高輪一丁目アパート

細川家屋敷の跡を歩くと、高台にあることがわかる。高台は眺めがよく、湿気が少なく、大名屋敷に人気のエリアだった。明治以降も皇族や華族の洋館が建ち、お屋敷街になった。

細川家屋敷の跡は、明治時代に海軍病院が建つ。その病院が移転した後の大正時代から皇族の高輪邸に利用された。

戦後、皇族の敷地の一部は売却され、現在は港区立高松中学校や都営高輪一丁目アパート、マンション・クラッシィハウス高輪などが建つ。これらの建物も、かつての細川家屋敷の広さを想像する目安になる。

病院坂と裏坂

高輪街頭の地図案内板を撮影した写真に点線と番号を加筆する。オレンジの点線は明治時代に海軍病院があった場所の目安。緑の点線はかつて病院坂とよばれ、横溝正史の小説『病院坂の首縊りの家』の舞台になった道。紫の点線はかつて裏坂とよばれた道。黒丸はこの章の写真の番号

細川家屋敷の跡は昭和時代、金田一耕助シリーズで知られる作家の横溝正史が1970年代に書いた小説『病院坂の首縊りの家』の殺人事件の舞台に使われた。

物語の背景は終戦直後の1953(昭和28)年。当時この界隈の坂は、明治時代に海軍病院があったことから「病院坂」とよぶ住民が多かったという。そこから枝分かれする坂を「裏坂」とよび、どちらも小説に頻繁に登場する。 

このほか、小説には高輪のランドマークとして、泉岳寺や高輪警察署、魚藍坂下なども出てくる。登場人物ゆかりの地として、五反田や目黒、恵比寿、碑文谷など、高輪から近い街の名も見られる。

(写真3)魚藍坂下交差点 左右に横切る道は国道1号線

(写真4)ピーコックストア高輪魚藍坂店

(写真5)ピーコックストアから続く坂道

横溝正史は神戸で生まれ、東京の地理に詳しくなく、知識があったのは泉岳寺くらい、と小説の序文に書いている。「忠臣蔵」で知っていた泉岳寺を拠点に着想を膨らませたのであろう。

高輪も第二次世界大戦中は空襲の被害を受けた。終戦直後は、手付かずのまま廃墟なった洋館が多く残っていたという。夜の闇のなかで見ると、西洋のお化け屋敷のように不気味で、横溝正史はそのイメージを殺人事件の背景に生かした。

(写真6)ピーコックストアから続く坂道 正面のT字路は二本榎通り。右の茂みは高輪皇族邸

(写真7)右の白い建物は港区立高輪図書館分室。2011年の建築。正面ビルの下は地下鉄白金高輪駅の入口。2000年の開業

映画監督・市川崑は1979(昭和54)年、横溝正史の小説『病院坂の首縊りの家』を映画化した。

当時の高輪には、市川監督が好む古風な日本の風景が残っていなかったため、映画版の舞台とロケ地は別の場所に置き換えて撮影した。

不気味な洋館イメージは、映画会社の撮影スタジオにセットを組んで撮影した。

現在の高輪はマンションや住宅が建ち並び、夜でも不気味なイメージはない。

琴の爪

(写真8)旧細川邸のシイ かつて細川家屋敷の庭にあったシイの木。推定樹齢300年。東京都指定天然記念物。長い歳月で太い幹の一部が欠け、自然のバランスが失われているが、根本に迫力と生命力を感じる

話を江戸時代にをもどす。大石内蔵助ほか16名の義士を預かった細川家の藩主・細川綱利は赤穂義士をたいへん気に入り、手厚くもてなした。

義士の助命を幕府に願い出て、召し抱えの話までしていたという。元禄は平和な時代で、義士の武勇伝に侍を思い出し、感心を示す人は多かった。

(写真9)旧細川邸のシイ

細川家屋敷で義士の世話をした、細川家の堀内伝右衛門は、義士の様子を覚書に詳しく記録し、「忠臣蔵」の貴重な資料とされた。

それによると、細川家は義士の部屋に風呂やトイレを新築。こたつを設置し、衣服も提供した。

義士の食事は二汁五菜。藩主と同等の豪華な膳だった。酒や菓子も振る舞われた。連日の料理の多さに困った義士は、減量を嘆願した。

義士は堀内伝右衛門の世話に感謝し、お礼に歌などの芸を披露した。 

(写真10)旧細川邸のシイ

堀内伝右衛門は、屋敷で切腹した義士のひとり、磯貝十郎左衛門の遺品に、琴の爪があったことを記録した。

この琴の爪の存在はミステリアスで、さまざまな憶測をよび、作家たちによって脚色された。

磯貝十郎左衛門は吉良邸の情報を探るために、吉良邸に出入りする女性と偽装結婚したけれど、忘れられず、女性からもらった琴の爪を肌身離さず持っていた、などのサイドストーリーが創作され、歌舞伎や映画に挿入された。 

大石内蔵助と義士終焉の地

(写真11)大石良雄外十六人忠烈の跡 都営高輪一丁目アパートの二本榎通り側の歩道前に建つ石碑。この奥に史跡があることを示すもの

(写真12)大石内蔵助外十六人忠烈の跡 大石内蔵助ほか16人の義士が細川家屋敷に預かりの身となり、その庭で切腹した場所。施錠された扉のガラス越しに見学する。東京都指定旧跡

細川家屋敷で、大石内蔵助ほか16名の義士は1703(元禄16)年2月4日、切腹の裁定を受けると、屋敷の庭で一人ずつ順番に切腹した。

その場所は、「大石良雄外十六人忠烈の跡」という東京都指定旧跡として保存されている。

ほとんど何もない空間を囲んだ施設で、ガラスの窓越しに見学する。

(写真13)大石内蔵助外十六人忠烈の跡 扉のガラス窓越しに撮影した中の敷地

義士が切腹した庭の跡地には何もないけれど、そのまわりに茂る雑木林は巨樹が多い。

自然が多く残り、近くの「旧細川邸のシイ」とともに、この地に大名屋敷があった面影を感じる。

(写真14)大石内蔵助外十六人忠烈の跡 切腹した場所に隣接する雑木林

大石内蔵助ほか16人の義士は、武士らしく切腹の刑を望んでいたという。しかし、当時の刑には、見せしめのための打ち首や火炙りなどの公開処刑もあった。裁定が下るまでの約40日間、義士は不安な日々を過ごした。

細川家は同じ武士として、義士の胸中を察し、武士の情けとして、できる限りの世話をした。高輪の屋敷で展開された武士の交流を、討ち入りの後日談として、編集に入れる芝居や映画は少なくない。

(写真15)大石内蔵助外十六人忠烈の跡 切腹した場所に隣接する雑木林

切腹した義士で最年少は享年16歳。大石内蔵助の子息、大石主税(ちから)である。

大石主税は、大石内蔵助とは別の、松山藩松平家の屋敷の預かりとなり、その庭で切腹した。現在その屋敷跡は、イタリア大使館になっている。

泉岳寺 大石内蔵助良雄の像 1921(大正10)年の除幕

大石内蔵助の討ち入りは、ふるさとに帰ることのない旅だった。

討ち入りする江戸で死ぬことを覚悟し、道中で次々に家族や知人と別れてきた。

苦難を乗り越え、同士と周到な計画を練り、成し遂げた意志の強さを思うと感慨深い。

泉岳寺 大石内蔵助良雄の像

泉岳寺にある大石内蔵助の銅像は、内蔵助が義士の名前を連ねた連判状を手に、赤穂から東の空、すなわち江戸方向を見る姿を表したという。

銅像そのものは、西の空を見る角度で建っている。

その方向には、品川の高層ビル群が見える。

そのはるか彼方は、ふるさと赤穂である。

高輪から見た西の空

散歩の後のお食事は、

「ラ・ビスボッチャ」で、

お楽しみください。