ビスボッチャ散歩:白金

WALK AROUND LA BISBOCCIA  Vol.8 “ Shirokane ”

第8回 写真・コラム/ライター織田城司  Photo & Column by George Oda

ハイカラな下町

ビスボッチャの街をめぐる歴史散歩のコラム。今回は、ビスボッチャの隣町「白金」で下町情緒をめぐります。

白金の地図

哀愁の商店街

白金の街並み

ビスボッチャから近い恵比寿三丁目の交差点で、信号が変わるのを待っていると「おや?」と思った。

北里病院の方角に、昔ながらの商店が並んでいる。

都市化が進む東京では珍しい。幻のような景色にひかれ、その方角に歩き出した。

洋食ハチロー

「洋食ハチロー」外観。長屋の一区画を使用

「洋食ハチロー」外観

「洋食ハチロー」看板

「洋食ハチロー」内観

「洋食ハチロー」内観

「洋食ハチロー」内観

ちょうど昼どきで、「洋食ハチロー」に入った。 

店内では、コックの格好をした老店主がひとりで切りもりしている。

卓上に置いてある「お昼のサービス定食」のメニューリストの中から、「セット定食(魚フライ半分&カニコロッケ半分)」を注文した。

「半分」という表記の内容がわからず、気になったからだ。定食には、ライス、みそ汁、小鉢、お新香が付く。

「洋食ハチロー」お昼のサービス定食「セット定食(魚フライ半分&カニコロッケ半分)」

出てきた皿の上には、白身魚のフライが1個と、カニクリームコロッケが1個のっていた。どうやら「半分」の表記は、2種のフライが、おかずの半分ずつを受け持つという意味らしい。

みそ汁は白みそを使い、まろやかな味わい。具材はミツバ、エノキ、油アゲが入り、具だくさん。シャキシャキとした食感を楽しむ。 

ライスの盛りは多く、卓上のゴマ塩をかけていただく。

「洋食ハチロー」お昼のサービス定食のみそ汁

「洋食ハチロー」お昼のサービス定食の小鉢

「洋食ハチロー」お昼のサービス定食のライス

定食はボリューム感がありながら、やさしい味わい。濃い味に慣れた舌には、新鮮な印象だった。 

会計後、主人に「こちらのお店は何年にできたのですか?」と尋ねると「うーん、60年くらいやっている」と答えた。

「昭和でいうと何年ですか?」と尋ねても「うーん、60年くらいやっている」と同じ答だった。 

東京タワーができたのが1958(昭和33)年だから、その頃創業したのだろう。

当時、スーパーやコンビニはなかった。「洋食ハチロー」は商店街が元気な時代の空気を、いまに伝えている。 

「洋食ハチロー」内観。壁面の半円施工が洋風を強調。テレビや新聞、漫画など、食堂のマストアイテムが揃う

白金の街並み

白金の街並み

白金の街並み。「肌着 裁縫用品 かづさや」の内観

白金の街並み

白金の街並み

白金の街並み

白金の街並み。左は大正時代の木造建築。近年までバーが入居していたが撮影した2019年11月は空き家

白金の街並み

白金の街並み

白金の街並み

恵比寿三丁目の交差点から北里病院のあたりまで、東京都道305号のバス通りを軸に集まる商店は、「白金北里通り商店街」とよばれている。 

町名の「白金」は、目黒に至る高台の町名「白金台」と一線を画す。「台」が付くと付かないでは、町の風情がガラリと変わるからだ。

「白金」は、古代から古川に侵食され、六本木と目黒の間にできた谷にあたる。

その古川の水系のまわりに、民家や商店が集まってできた下町が「白金」のルーツになる。

いまも庶民的は情緒が根強く残るところが魅力だ。高層ビルが多い「白金台」とは、雰囲気がちがう。

東京大空襲で奇跡的に焼け残った戦前の建物が、「白金」の下町情緒を増している 。

白金の街並み

白金の街並み

白金の街並み

白金の街並み

白金の街並み

白金の街並み

星野屋酒店

「星野屋酒店」外観

「星野屋酒店」の長屋の装飾

「星野屋酒店」店頭

木板塀や看板建築の商店を見ながら歩くと、酒樽が目についた。 

「星野屋酒店」である。酒樽でも置かないと、見逃してしまうくらい狭い間口だ。 

「星野屋酒店」は1909(明治42)年に創業。この界隈で店舗を転々とし、現在の地に落ち着いたそうだ。

小さな酒屋ながら、オリジナルの日本酒「白金三光町」を手掛けていることに「白金」への郷土愛を感じる。 

「星野屋酒店」のオリジナル日本酒「白金三光町 純米吟醸」(写真・織田城司)

「白金三光町」は東京の酒にこだわり、東京都福生市で1822(文政5)年に創業した「田村酒造場」で醸造している。 

多摩特有の中硬水を使い、国産の酒造好適米を55%まで精米して醸し出す純米吟醸酒である。

大手の定番品よりも、あえてグレードアップした酒造りは、「白金」の人々の心意気を象徴する。 

香りは豊かな吟醸香があり、口当たりはなめらか。味わいはキレのある辛口。辛さから旨み、コクまでの幅が広い。後味はすっきりしながら、シャープで力強い印象を感じる。

銘柄の「白金三光町」とは、現在の「白金」を含む旧町名のことで、1891(明治24)年に制定され、1969(昭和44)年まで使われていた。

「星野屋酒店」のオリジナル日本酒「白金三光町 純米吟醸」(写真・織田城司)

地域の施設が「白金三光町」の表記を使い続けるのは、下町情緒への郷愁や、歴史を誇る意味があるのかもしれない。

北里病院の手前にある小さな交番の表記には「白金三光町交番」とあり、存在しなくなった町名を使い続けていることがおもしろい。

「高輪警察署 白金三光町交番」

「港区立 三光幼稚園」

「高輪消防署 三光出張所」

バス通り沿いに残る1936(昭和11)年製の「国威宣揚 三光協和会」と書かれた柱。国旗掲揚に使われた

三光坂下交差点

三光坂の上から三光坂下交差点を望む。「白金」の谷間がよくわかる

喫茶サンドリアン

「喫茶サンドリアン」外観

「喫茶サンドリアン」外観

別の日に、バス通りの続きを歩く。北里病院の広大な敷地を通り過ぎると、「喫茶サンドリアン」の70年代調の外観が目につき、迷わず入る。

この日も昼どきで、ランチセットの中から「ナポリタン」を注文した。スープとコーヒーが付く。

「喫茶サンドリアン」ランチセットのスープ

「喫茶サンドリアン」ランチセットの「ナポリタン」

「ナポリタン」の具材は、ソーセージ、ハム、マッシュルーム、タマネギ、パプリカ、ピーマンと種類が豊富だ。

どれも細かくカットされ、アルデンテではない細麺とよく絡む。ソースはあっさり目で、具材の多彩な歯ごたえと味わいを楽しむ。

セットの玉子スープは、さっぱりした口当たりの中に、玉子の柔らかい甘みと、わかめの旨みが調和し、豊かな滋味を感じる。

コーヒーは苦味が効いて、胸がじんわり熱くなった。

「喫茶サンドリアン」ランチセットのコーヒー

店内をよく見ると、カウンターの片隅にカラオケ用のマイクとタブレットがある。

昼喫茶・夜スナックの業態は、どの街でも少なくなる一方で、貴重な存在だ。

歴史のある街ゆえに、ながく暮らす住民が常連と思われる。

個室で歌に集中するカラオケボックスよりも、スナックのように第三者がいる酒場で、会話や出会いも楽しみたい世代だ。

「喫茶サンドリアン」内観

ドラマに描かれた白金 

「白金氷川神社」鳥居

バス通りを白金一丁目の方角に歩いて商店街が途切れると、「白金氷川神社」の鳥居が見えてくる。

御由緒によると、神社は白鳳年中(672〜686年)に白金の総鎮守として創建され、港区最古の神社とされている。

東京大空襲で神殿が焼失。現在の社殿は1958(昭和33)年に参道・社務所とともに再建された。

「白金氷川神社」境内

「白金氷川神社」狛犬

神社の狛犬を見て思い出すのは1980(昭和56)年にN H Kで放送されたドラマ『あ・うん』である。

物語の時代設定は昭和10(1935)年。杉浦直樹演じる鋳物工場の社長は羽振りが良く、山の手の「広尾」に住み、その戦友で、製薬会社のサラリーマンを演じるフランキー堺は下町の「白金三光町」に住む設定で、二人の友情や女性関係を大人のユーモアで描く。

物語の冒頭、フランキー堺の一家が転勤先から東京に引っ越してくる場面で、「芝・白金三光町」と書かれたテロップが画面の真ん中にドーンと映る。当時は港区ではなく、芝区だったので、旧町名の前に芝が付いた。 

「白金氷川神社」境内

二人の男の立場を「広尾」と「白金」で描き分けた脚本が秀逸である。この脚本を手掛けた向田邦子は、目黒や麻布、青山に住んだ経験があり、「白金」には土地勘があった。 

下町の人情話を描くのであれば、全国的に知られている「浅草」を舞台にしても良かったはずだが、あえて知る人ぞ知る「白金」を選んだところが、向田邦子の技術である。

大多数の人は「白金」に先入観がないため、物語に「むかしむかし、あるところに」という匿名性を感じ、ストーリーに集中できた。自分が育った街のように観る人もいたであろう。

『あ・うん』は好評で、1981(昭和57)年にパート2が放送された。パート3も計画されていたが、同年8月、向田邦子は台湾旅行中、飛行機事故で急死。遺作となった。

「白金氷川神社」境内

『あ・うん』は1989(平成元)年、高倉健主演で映画化された。黒澤明監督はこの映画に「向田邦子は本当にしっかりしたホンを書く人だった。惜しいことをしたよ」とコメントを寄せ、『黒澤明が選んだ100本の映画』(黒澤和子編)の1本に選んでいる。

向田邦子に影響を与えた映画監督の小津安二郎は1931(昭和6)年、『東京の合唱』という映画で「白金三光町」を舞台にした。『あ・うん』の時代をリアルタイムで描いていた。

「白金氷川神社」狛犬

『東京の合唱』に登場する中学校の教師は定年退職後、「カロリー軒」という大衆向けの洋食店を開業する。おすすめメニューは、ライスカレー。

かつての教え子がビラを配って宣伝を手伝う。そのビラが画面に大映しになると、「カロリー軒」の住所は「白金三光町」になっていた。 

常にロケ地を探すために東京中を歩いていた小津監督の街選びは、さすがに鋭く、昭和初期に大衆洋食店ができそうな下町として「白金」に目をつけていた。

「白金氷川神社」鳥居

昔の白金を訪ねて 

かつて白金にあり「江戸東京たてもの園」に移築された「小寺醤油店」店舗と袖蔵の外観

「小寺醤油店」欅(けやき)一枚板の看板。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」旧所在地案内図。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「白金」の歴史を調べていると、かつてバス通りにあった「小寺醤油店」が「江戸東京たてもの園」に移築されていることを知った。そこで、昔の面影を探しに出かけた。

建築年は1933(昭和8)年。まさに小津映画や向田ワールドの時代である。 

「小寺醤油店」は激動の昭和を生き抜き、空襲で焼け残り、「白金」のランドマークとして親しまれた。

しかし、昭和が終わる頃に力尽き、惜しまれて閉店。1993(平成5)年に「江戸東京たてもの園」で復元された。

「小寺醤油店」内観。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」内観。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」内観。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」内観。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」の店内で、ひときわ目を引くのは、ヒョウタン型の島什器である。

宣伝手段がたくさんあった時代ではないので、店舗そのものに街ゆく人の足をとめる見どころをつくった。 

それゆえ、いまの店舗にはない、豪快で斬新なインパクトを感じる。

店内の展示品は、閉店した平成当時のものではなく、東京オリンピックが開かれた1964(昭和39)年頃を想定し、当時の骨董品を集めて雰囲気を再現した。 

「小寺醤油店」内観。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」内観。1960年代初期までは日本酒や醤油、味噌は量り売りだった。客はビンや容器を持参して買いに行った。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」内観。左下は客が持参したビンや容器を洗うために設けた流台。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」内観。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」内観。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」内観。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」内観。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」内観。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」店舗左脇の住居の門。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」店舗左脇の住居の門。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」店舗裏の住居。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」店舗裏住居。廊下のガラス戸。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」店舗裏住居。玄関と廊下。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」店舗と袖蔵の接合部。店舗から袖蔵に行くこともできた。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」袖蔵の1階と2階を結ぶ階段。持ち運ぶ商品が重いため滑り止めも頑丈。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」袖蔵から店舗を望む。「江戸東京たてもの園」にて撮影

港区は明治以降、大使館が集まり、外交の街として発展した。

「白金」にも外国人が多く住み、日本人とともに商店を支え、ハイカラな下町の風土を育てた。

都内の下町の中でも、国際色豊かな雰囲気が持ち味だ。

「小寺醤油店」の英語表記に、ハイカラな下町のルーツを感じた。

「小寺醤油店」内観。「江戸東京たてもの園」にて撮影

「小寺醤油店」内観。「江戸東京たてもの園」にて撮影

白金に建つ「小寺醤油店」を1950年代に撮影した写真。「江戸東京たてもの園」にて撮影

かつて「小寺醤油店」があった場所には、コンビニとマンションが建っている

散歩の後のお食事は、

「ラ・ビスボッチャ」でお楽しみください。